●豊臣氏 とよとみし
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豊臣(とよとみ)とは,いまさらいうまでもないほど有名な姓氏(せいし)の一つである。1585年(天正13)において,羽柴(はしば)秀吉が,天皇に上奏して,正親町(おうぎまち)天皇の勅許を得て,とくに賜った,由緒(ゆいしょ)ある姓である。豊臣氏の祖である豊臣秀吉は1536年(天文5)に生まれ,1598年(慶長3)に死去しているが,豊臣政権の創始者であるとともに,その主権者であった。関白に任ぜられている。織田信秀の足軽であった木下弥右衛門の長男として,尾張国の愛知郡中村において出生した。幼名を日吉丸といい,後に木下藤吉郎,さらに羽柴筑前守を称している。1550年(天文20)家出してからは,今川家の家臣だった松下之綱に奉公し,1553年に織田信長の草履取(ぞうりとり)となったのが,秀吉の運のつきはじめであって,やがてしだいに取り立てられ,信長から重宝がられ,だんだんと重く用いられていった。1573年(天正元)近江氏との戦に活躍し,その旧領を得,1576年長浜に築城した。1577年に中国平定のための主将を命ぜられ,播磨・備前ならびに美作(みまさか)と因幡の,毛利氏と属城を攻略した。1582年備中の高松城の包囲を完成して,同城を水攻めの最中に京都において本能寺の変がおこったので,すぐさま毛利氏と和睦して秀吉は軍勢を引き返すことに成功し,山崎の一戦で明智光秀を滅亡させている。清州会議において,織田信忠の子の三法師(秀信)を織田氏の家督に推挙し,織田(神戸)信孝および織田家の重臣だった柴田勝家と対立して争った。この年,秀吉は従五位下近衛権少将に任ぜられた。1583年賤ケ岳の戦いにおいて勝家軍を破った。1585年内大臣,ついで藤原氏をとなえ,従一位関白となった。この年,大坂城を完成させ,5奉行をおき,公武を統轄する体制をつくった。またこの年に,先に述べたように豊臣姓の勅許を得,1586年太政大臣に任ぜられ,1587年薩摩の島津氏を征するため,九州征討軍を出し,1590年に後北条氏を打ち破って亡ぼし,奥州を平定して,日本全国を統一した。1587年以降は,朝鮮および明国の征服を企図した。1592年(文禄元)4月文禄の役がおこり,秀吉は朝鮮に出兵し,6月には征明を命令した。1597年(慶長2)に慶長の役がおこり,秀吉は諸将に再征を命令した。1598年8月に秀吉は,63歳で,実子の秀頼の将来を心配しながら死去した。秀吉の辞世の歌は,〈露と落ち露と消えにし我身かな浪華(なにわ)のことは夢のまた夢〉という。秀吉の実子の豊臣秀頼は,1593年に秀吉の次男として生まれ,1615年(元和元)に大坂城落城の際に,自害した。幼名は,お拾(ひろ)いといった。母は秀吉の側室の淀君であった。1595年に関白豊臣秀次の高野山へ追放事件後に,豊臣の世嗣となった。前田利家が秀頼の育成を担当した。1598年秀吉が死ぬとき,五大老より忠誠の血判誓書を受け取った。石田三成は,1600年関ケ原の戦いで秀頼の名をもって西軍諸将を集めた。1603年徳川家康が征夷大将軍となると,秀頼は徳川政権下のたんなる一大名に転落した。同年,徳川秀忠の娘の千姫と結婚し,1605年右大臣に任ぜられた。1615年(元和元)大坂夏の陣で家康に敗れ,母の淀君とともに自殺した。
豊臣秀次は,秀吉の甥で,母は秀吉の姉の日秀である。1590年(天正18)秀吉の全国統一まで,いろいろな戦争に従い,その功により近江ついで尾張と北伊勢など重要な諸国を与えられた。1591年秀吉の長子鶴松が死んだ後,秀吉の養子,12月には関白となる。1593年秀吉の次男の秀頼が生まれると謀反の疑いで1595年7月高野山で切腹した。