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●杜甫 とほ

アジア 中華人民共和国 AD712 唐

 712〜770 唐代の詩人。李白とともに唐を代表する人で,中国では「詩聖」として現代においてもあがめられている。字は子美。襄陽(湖北省)の杜氏の出であるが,生まれたのは鞏県(河南省)であった。杜甫自身,詩のなかで,杜陵(長安)の杜氏の出であることを口にするが,杜陵の杜氏は本家で,杜甫の出自はその分家の襄陽の杜氏である。杜甫の祖父杜審言(としんげん)は,則天武后の時代の詩人として有名であった。父の社閑は,地方官で終わった。杜陵の杜氏はなかなかの名門であるが,分家の襄陽の杜氏からはさしたる政治家は出なかった。しかし杜甫は,ともかくも官僚人の家に生まれたので,みずからも官僚人になることを志し,科挙の試験(官吏採用試験)を何度も受験したが,ついに合格せず,44歳までは職もなく浪人生活を余儀なくされた。早くから詩才をもって知られていたが,長い浪人生活をするうちに40歳ごろから,社会的題材をとりあけて民衆に代わってうたうという社会詩人として名声をあげていった。44歳のときに,知人の推薦によって右衛率府冑曹参軍事(皇太子の御殿を防衛する軍隊の兵器庫の管理者)となったが,任官後間もなく安禄山の乱がおこり,杜甫は前年食糧疎開させていた家族の住まいを移すために疎開先に行き,そのとき粛宗(しゅくそう)が霊武で即位したニュースを聞いて,単身粛宗の行在所(あんざいしょ)にはせ参じようとして行く途中で,安禄山側に捕らえられて捕虜にされ,長安の捕虜収容所に送りこまれてしまった。杜甫45歳の時のことである。翌年4月,収容所を脱走して,そのときは鳳翔(陝西省)に行在所を移していた粛宗のもとにたどりつき,格別の抜擢で左拾遺という天子側近の諫官にあてられた。しかしながら,元来,科挙にも合格していなかった杜甫であったので,やがて少しずつ秩序が回復するとともに,華州司功参軍事という地方官に出されてしまった。杜甫47歳の6月のことである。有名な「春望」の詩は,長安の捕虜時代の作。この時期の杜甫は,後世の人から「詩史」(詩による現代詩)と称されるほど,安禄山の乱を題材にして,たくさんの詩をうたいつづけた。華州司功参軍事として任官中は,杜甫の社会詩の最大傑作とされる「三吏三別」の6作品を作ったが,そのなかで政府のやり方を批判する発言があるということで,華州司功参軍事の官を免ぜられてしまった。杜甫48歳の秋のことである。

 そののち,杜甫は,家族を連れて放浪の詩人としての長期の旅に出る。秦州から同谷をへて,48歳の12月に成都(四川省)にたどりつき,翌49歳のとき,成都の浣花渓(かんかけい)のほとりに草堂をつくり,54歳まで成都に滞在することになる。この時期は杜甫にとって最も恵まれた時期で,かつての友人の巌武(げんぶ)や高適(こうせき)が交替でこの地域の高官として着任し,杜甫の生活を見てやったりもした。53歳のとき,剣南東川節度使の巌武のもとで,巌武の推挙により節度参謀・工部員外郎となったが,それも永くはつづかず,翌年54歳の正月には官を辞して浣花草堂(かんかそうどう)にもどった。そしてこの年の正月に高適が,4月には巌武が相ついで亡くなるとともに,杜甫は成都の生活に見きりをつけて,家族ともども再び旅に出た。こんどの旅は,長江を利用しての水上の旅であったが,健康をむしばまれつつあった杜甫は,しばしば水上から陸地に上陸して,病気療養にあたらざるをえなかった。最も長く陸上の生活をしたのは,55歳の秋から57歳の正月までのキ※注1※州(四川省)時代であった。そのあいだに杜甫は『秋興』八首の連作をはじめとして,数々の名作を残した。杜甫の芸術が最も結実したのは,この足かけ3年のキ※注1※州時代であった。57歳の正月にキ※注1※州を離れ,また長江を下って洞庭湖に向かい,さらに南下して長沙(湖南省)に向かおうとしたが途中洪水にあい,あきらめて北上する途中,潭州と岳州(ともに湖南省)のあいだの水上で,家族に見とられつつ59歳の寿命を終えたのであった。官をやめてからの杜甫は,社会詩人であることをやめて,詩を芸術作品として高めるために,いろいろと様式のくふうをし,中国詩の可能性の極限に近いところまでの追究を試みた。杜甫が後世「詩聖」をもってあがめられるのは,実にこの点にある。こうして杜甫は,在官中はすぐれた社会詩人として,また官をやめて放浪の旅に出てから以降は,すぐれた芸術詩人として,後世の詩人に限りない刺激を与えたのであった。

〔参考文献〕高木正一『杜甫』1969,中央公論社

鈴木修次「杜甫論」『唐代詩人論』1979,講談社

鈴木修次『杜甫』1980,清水書院

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