●吐蕃 とばん
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7世紀初めから9世紀中ごろにかけてチベットにできた統一王国でこの国を中国では吐蕃と呼び、この名が14世紀中ごろまでチベットの呼び名として用いられた。この王朝の祖先はヤールン溪谷の出身で7世紀の初めラサを中心とする地域に王国を建設し、チベットの諸部族をしだいに併合してチベットに初めて統一国家をつくった。王はツェンポと呼ばれ、支配階級は遊牧を中心としていたが、農耕民をも抱えていたので強固な体制をつくることができた。統一を完成したのはソンツェンガンポ王(?〜649)であり、吐谷渾を破り、唐の領域に侵入した。唐の太宗は文成公主を降嫁させて懐柔し(641、貞観15)、以後しばらく両国のあいだに友交関係がつづいたが、ソンツェンガンポの死後、ガル一族 Mgar が実権を握り、宰相ガルツェンニャ(賛悉若)は東西トルキスタン方面に軍事行動を行い、ために唐の安西四鎮は670年(咸亨1)から692年(嗣聖9)まで廃止された。つづいてロンチリン(論欽陵)が宰相となりさらに積極的に軍事活動を行った。唐はチデツクツェン王に中宗の養女金城公主を降嫁させたが、両国の関係は改善されず国境での戦闘が繰り返された。公主はたびたび従兄の玄宗に手紙を送って両国の友好関係樹立を訴えたが玄宗は開元末から天宝初年にかけて積極的に吐蕃を攻撃してチベットに追い戻した。755年(天宝14)安史の乱がおこり、辺境の守りが手薄になると同時にチソンデツェン王 Khri-srong-lde-brtsan は大軍を出して唐の都長安を占領した。数日にしてチベット軍は長安を撤退したが、河西隴右地帯はそののち唐末まで占領され、敦煌も70年間チベットの支配下に置かれた。790年(貞元6)には吐蕃は唐の安西都護府を落城させトルキスタン方面を支配下に置いた。その後ウィグルや南詔が唐にくだって吐蕃は孤立し、チツクデツェン王のとき唐と会盟し(821、822、長慶1、2)、823年にはラサに唐蕃会盟碑が建てられ平和が訪れた。この王のあと弟のランダルマ王が立ち宗教を禁断した。この王が暗殺されたのち、王位継承問題に端を発して内乱となり、チベットは地方小政権分立の時代に入る。これに乗じて唐は次々と被占領地を回復し、850年(会昌4)には吐蕃の沙州刺史張議潮が唐にくだって吐蕃の対外活動に終止符が打たれた。
【吐蕃の文化】ソンツェンガンポ王時代にチベット文字が制定され、ネパール王女ヴィルクチ(Bal-mo-khri-btsun)と唐の文成公主の降嫁によってインドや中国の文化が導入され、チソンデツェン王時代(在位754〜797)にはサムエ寺が建立され、多くのインド僧が入蔵した。また吐蕃の占領地敦煌から多くの中国の禅僧たちが入蔵したが、王命によりサムエ寺でインド僧と中国僧の教義論争が行われ、インド仏教を国教とすることが定められた(782ごろ)。以来インド僧の入蔵するものも多く、仏典の翻訳も盛んとなったが、チツクデツェン王時代(在位815〜844)になり、経典の訳語を統一するため『翻訳名義大集』がつくられ旧語に代わって新語によって『デンカルマ』という訳経目録がつくられた。ランダルマ王の廃仏以後はチベットの情勢はあまり中国にも知られなかったが、宋代および元代にもチベットを指す言葉として吐蕃という名称が用いられている。