●徒弟制度(西洋) とていせいど
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【成立】徒弟制度とは,ヨーロッパ中世の手工業ギルド craft gild(ドイツではツンフト Zunft, フランスではメチエ metier, コルポラシオン corporation, イタリアではアルテ arte などと称した)の内部で現れた親方 master([独]Meister)−−職人 journeyman([独]Gesellen)−−徒弟 apprentice([独]Lehrling)の階層制度である。手工業経営者が若年者を補助労働力として用いたのは,おそらく手工業の歴史とともに古いといえようが,その制度化はギルドの成立にともなう現象であった。徒弟制度はギルド手工業の生産関係を規定し,ギルドと盛衰をともにしたといってよい。時期的に最も早いドイツの徒弟制度の存在を示す例として,12世紀後半のケルンのろくろ工ギルドに関する史料がある。そこでは従弟としての承認を得るためには,一定の金額をギルドに納めることが必要とされているにすぎない。このようにドイツの初期のギルドでは,徒弟は必ずしも一定年限の修業を要求されたわけではなく,親方となるためには,一定の加入金を納め,ギルドの承認を得ればよかった。こうした比較的緩やかな規定は,後述のように14〜15世紀以降のギルドをとりまく社会的・経済的条件の変化によって厳格になっていくが,イギリスでも一般に14世紀まで,一定期間の徒弟修業がギルド成員資格の前提条件とされることは稀だったようである。いずれにせよ,徒弟制度の目的は,親方にとっては有能な補助労働力の確保,ギルド全体にとっては一定の技能水準をもつ成員の補充,徒弟にとっては自立的な手工業経営者となるための修業であった。【実態】従弟修業に入る者の年齢は職種によって労働の質が異なるゆえに多様である。大ていのギルドの場合,8〜10歳以上,15〜16歳以下とされているが,石工や大工など体力を要する職種では15〜16歳以上とされることが多かった。従弟修業を希望する者,あるいはその親は親方と一種の年季奉公契約を交わし,親方の下でその命令に従い,無償で勤勉に働くこと,飲酒や賭博など不品行をなさず,また仕事中に親方に損害を与えたり,営業上の秘密をもらしたりしないこと等を約束した。同時に上述のように,加入料ないし修業料として一定額の貨幣やブドウ酒などをギルドに納めねばならなかった。各親方の経営規模を平等に保つために,補助労働力としての徒弟の人数は職人の人数とともに,ギルドごとに厳格に規定されており,通常一人の親方は徒弟1〜2人,職人1〜2人のみを使用しえた。同じ見地から労働日と労働時間の規定も厳格であり,これには親方も徒弟もともに服した。休祭日の就労は禁止され,また大多数のギルドにおいて,朝5時から夜8時が労働時間とされたほか,ローソクの下での労働は製品の質を低下させるものとして禁止された。徒弟は親方と,家庭内で起居をともにし,親方は徒弟に職を教えるのみならず,徒弟の健康と品行に配慮し,生活全体を厳しく監督した。このように労働を含む生活全体をつらぬく親方との密接な関係の中で,成長期の2〜3年から10年近くを過ごした徒弟にとって,徒弟修業は良くも悪しくも人格形成の場であり,親方は第2の父であった。親方の家父長的な指導の下でも徒弟は自能力を延ばし善良な親方の薫陶を受けて,有能な自立的手工業経営者となりえたことは,職人の遍歴とともに,徒弟修業がギルド的な技術修得の枠を越えた人間形成の場として,ドイツ教養小説に精神的基盤を提供したことからも理解される。しかし現実には,近代的工場労働者と異なり,階級的連帯による待遇改善をなしえなかった徒弟にとって,しばしば親方やその妻の冷酷な処遇は耐え難いものであった。16世世紀初めのドイツの人文主義者ブッツバッハ(1478〜1516)がその著『放浪学生の手記』(原文ラテン語)において,自身の2年間の仕立屋の徒弟としての悲惨な生活を記したところによれば,労働は未明から深夜に及ぶほか,家事や走り使いをも命ぜられ,若い者でも健康を損うほどであった。しかしこうした断片的史料を除けば,徒弟は少なくとも,親方と同数程度存在したであろうし,親方・職人とともに都市住民中の最大集団たるギルド手工業者層を形成していたにもかかわらず,市政改革を要求するだけの能力を有した親方層や自立性の高い職人層と異なり,親方への従属性の強い未成年の奉公人であったゆえに,一般にその社会的実態を知るための史料はきわめて少ないのである。
【ギルドの閉鎖性と徒弟制度】14世紀になるとドイツでは徒弟の修業期間を明記したギルド規約書が多数現れる。年数の規定は各職種,とくにその技術修得の難易度に応じて多様である。ケルンでは麻織物工・羊毛の剪毛工(せんもうこう)の場合2年,甲冑工(かっちゅうこう)は6年,最も熟練を要する金細工師は8年(いずれも14世紀)であった。イギリスをも含めて3〜8年の徒弟修業期間が一般的であったといえる。この期間中,忠実勤勉に修業しなかった場合,徒弟は金銭上の賠償をしなければならないのみか,ギルドから追放され,以後市内で手工業を営む一切の道を閉ざされた。このような修業年数がギルド成員資格の前提とされるようになったのは,もちろん技術水準の維持と製品の質への配慮にもよるが,そのほかに従来比較的容易であったギルドへの加入,つまり親方への道をより困難にするという目的に沿うものでもあった。通説的には14世紀後半以降,ギルドの閉鎖化傾向が顕著となった。市場需要の限界,農村手工業との競合の激化,継続的な農村部からの都市への移住などがその背景をなした。また14世紀半ばの黒死病の流行による激減後も,都市人口は農村部からの流入によって短期間のうちに回復したが,都市内に移った農民は当然ながら,さしあたり大きな資本を必要としない手工業部門に従事することをめざした。限られた市場の営利機会の独占と,成員間での平等な配分をめざす,その本来の動機からして,当初のギルドが全く自由で開放的な原則をもっていたとは考え難いが,とりわけこの時期以降,このような未熟練労働力の大量流入や非ギルド的な職業労働者の増大に対して,ギルドが閉鎖化という手段によって対抗しなければならなくなったことは理解される。この傾向は,まず各ギルドの親方数の制限のなかにみられるが,その場合親方の地位が欠員になった折にのみ,新しい親方が採用されることになる。リューベックでは釘工ギルドは親方を12人に制限しており(1356),金細工師は1371年まで24人であったが,それ以後22人に,さらに1376年には12人に制限されたように,親方数は縮小されさえした。こうした制限によって,徒弟が修業期間を終えても親方になれないというケースが増加した。もっとも,当初より修業を終えた徒弟が直ちに独立した親方となることは稀であり,ひきつづき親方の下に一定期間使用されることが多かったのであるが,こうした徒弟と親方の中間的存在は,14〜15世紀以降,職人としていわゆる遍歴強制とともに制度化されていく。以上のような親方数の制限は,親方の地位の世襲化傾向をもたらした。手工業経営の世襲性はイタリアでは10世紀のラヴェンナの魚屋ギルド,ヴェネツィアの馬具師・肉屋・皮鞣工ギルドの規約の中にすでにみられるが,ドイツでは14世紀以降に顕著となる。たとえば,徒弟修業年数も親方の息子は半分に短縮されることが多かった。ケルンの金細工師の場合,親方の息子は一般の徒弟の半分の4年の修業でよいとされたのみならず,徒弟加入金も半額で済まされた。バーゼルの場合,親方の息子は一般の7分の1から12分の1の徒弟加入金で済まされ,パリやアミアンの多くのギルドでは親方の息子は加入金を免除されたという。この徒弟加入金は14〜15世紀にはたえず引き上げられ,富裕市民の子弟以外にはきわめて調達困難な額にのぼったので,市当局がこうした法外な加入金の徴収を取り締まろうとしたケースもみられる。1414年バーゼルの市参事会は,このような高額な加入金のゆえに,もはや誰もバーゼルに住もうとはしないと非難している。したがって上述のような親方の息子に認められた特典は,事実上の親方の地位の世襲化を促すものであったといえる。同様な傾向は,親方作品([独])の規定にも示される。親方の地位を得る前提として,当該職種における技能を証明する製品の提出を義務づける規定は,パリではすでに13世紀に靴工と絹織布工の場合に現れているが,一般には15世紀後半に顕著となった。たとえばリューベックの靴工(1370)・毛皮工(1386),マインツの仕立屋(1391),ロンドンの革具工(1355),ローマ Roma の壁工(1397)などの例をあげることができる。文字どおり親方作品は“傑作”であることが要求されたが,まことに法外な費用と時間を要するだけで,使用価値のないものを製作せしめられるような,無意味な仕事である場合も多かった。とまれ親方作品の強制は,親方就任の際のギルドへの納入金・ギルド成員への祝儀などの費用とともに,資産をもたぬ一般の徒弟や職人にとって,親方の地位獲得をいっそう困難にした。しかも親方の息子は親方作品をも免除されることがあったという事実は,親方作品の強制が同じく世襲化につながるものであることを示している。このような世襲性の強化の結果,徒弟修業を終えた者でも,親方の息子でない場合,親方の娘,あるいは未亡人と結婚しない限り,親方の地位獲得は困難となった。親方の死後,その未亡人が徒弟や職人を使用して経営をつづけることは大ていのギルドにおいて認められていたが,経営の維持と親方の地位獲得を目的とした年増の親方未亡人と若い徒弟や職人の結婚の増加は,都市の低出産率と人口の自然減少(実際には市外からの流入によって補われる)の一因であったとさえいわれる。ともあれ,以上のような中世後期のギルドの閉鎖化の進行のなかで徒弟制度は,親方の後継者の養成という機能を後退させ,徒弟と職人を親方の経営のための補助労働力として固定化する傾向が強まったといえよう。ただ西ドイツにおけるシュルツの最近の研究によれば,このような親方の地位の世襲化は中世末期までさほど顕著でなく,16〜17世紀以降になって初めて明確になるという。ここに示してきた従来の通説は主として14〜15世紀のギルドの規約書を史料的根拠としているが,これら規約書の多くは,以前からの慣習的規定をその時期に文書化したものであるから,ギルドの閉鎖化・世襲化が果たして実際に規約書作成の時期に初めて生じた現象であるのか,あるいはギルドの本質の表現にすぎないのか,慎重な検討を要する。シュルツ説を契機として厳密な史料批判をふまえた新しい実証研究が進められるものと期待したい。
【徒弟制度と賤民身分】中世社会には,特定の職業や出生事情により賤視された人びとが存在したが,ギルドはこうした人びとを厳しく排除した。また楽師・刑吏・墓掘り人など特定の職業従事者はそもそも自身のギルドを形成しえなかった。一般にギルド加入を拒否されたのは,第1に“不名誉な”職業についた人々(理髪師・羊飼い・粉屋・夜警・墓掘り人・刑吏・楽師など)であり,さらに中世末期には農奴(体僕[独])や非嫡出子,娼婦や聖職者の子どもなども排除対象となった。スラヴ人地域と接するバルト海地方のハンザ都市ではたびたび,ギルド加入は“自由身分のドイツ人”に限られ,ヴェンド人などスラヴ系の人間は拒否された。このようにギルドからの排除の対象となる人びとの範囲は中世末期に拡大され,かつ厳格となった。多くの都市では15世紀には,徒弟となるに際して,4代までさかのぼって“嫡出のドイツ人”たること,また賤民でないことを証明するように要求された。さらに親方・職人については,その妻もまた嫡出で“醜聞ある女”(娼婦かそれに類する女性)ではないことも要求された。このようなギルドによる厳しい排除傾向のなかに,中世社会における賤民概念の形成の主要原因を求めようとする説もある。もちろん,特定の職業従事者の賤視の起源は,民族固有の古くからのタブーやキリスト教的倫理ともかかわるものであろうが,やはりギルドの閉鎖化と結合した排除の厳格化と対象の拡大は,賤民観念の社会的定着に決定的な役割を果たしたと考えられる。フランクフルトのいくつかのギルドでは,非嫡出子の排除は徒弟については親方・職人の場合ほど厳格ではなかったことは,徒弟のなかで親方たりうる者の範囲を縮小しようという意図を示しているように思われる。しかしギルドの賤民排除は,親方資格の厳格化による有資格者の限定のみを目的としたのではない。前述のような農村部からの移住者を中心とする,熟練を要さぬ非ギルド的手工業者や底辺的職業に従事する人々の増加に対して,旧来の伝統的ギルド手工業者は彼らから自分たちを区別し,自身の社会的・政治的な評価と地位を維持するために,彼らの職業を賤業として位置づけようとし,またギルド加入を拒んだのである。このように中世末期の手工業者が置かれていた厳しい生存条件のなかで,ギルド手工業者が他者の競合を排しつつ自らの優位を保つために採らねばならなかった一つの手段が,自分たちの“ギルドの純粋性”の強調であり,それは裏返してみれば,賤民に関する社会的通念の形成過程でもあったといえよう。
【近世以降の徒弟制度】近世以降の徒弟制度の歴史も,ギルドそのものの歩みと軌を一にしているといってよい。16〜17世紀以降,シュルツも認めるように親方数の制限と地位の世襲化,職人の賃労働者化と徒弟の使用人化傾向の増大,職人組合の形成と独自の運動の展開,さらには親方間の階層分化,商人資本による小親方の問屋制的支配,加えて絶対主義的国家権力によるギルドの営業独占権の規制などの,ギルドをとりまく諸条件の悪化のなかで変質をせまられながらも,手工業ギルドはヨーロッパ各国において17〜18世紀を通じて存在し,機能した。ギルドがもはや中世におけるごとき営業独占権や都市行政上の権能を有しえなかったことは自明であるが,絶対主義国家権力といえども,ギルドを完全に解体させて営業の自由をつらねきうるほどの経済政策の遂行能力はもたなかったし,それは現実にも適さなかった。フランスでは革命中の1791年にギルド(コルポラシオーン)の廃止が決定されたが,現実にはギルドは19世紀になお重要な政治的・職能的集団でありつづけた。またドイツではナポレオンの占領下での自由主義的改革により,ギルドの営業独占権は大きな損害を受けた。しかし雇用関係における家父長的理念の影響が強いドイツでは,その後も徒弟制度は親方と徒弟の家父長的教育関係という側面において道徳的に評価され,とくに保守層の支持を受けた。そして親方層はまた19世紀前半の自由主義運動の流れのなかにおいても,営業の自由に反対し,徒弟制度の維持を訴える手工業者運動を展開した。イギリスでは17〜18世紀の商業資本の圧迫に対抗する小親方の運動は,労働組合運動の先駆をなしたといわれ,ドイツではとくに職人運動が同様の意義を有した。また19世紀後半以降プロイセンや第2帝政下のドイツでは数次の手工業立法や営業条令によって,徒弟・職人と親方の双方の権利・義務関係が明確化され,徒弟制度は徐々に近代化されていった。そして現在の西ドイツでも伝統産業のみならず,大企業末端の職制においても,徒弟・職人・親方という徒弟制度の階層制は法的に認められたかたちで存在している。徒弟修業は国民学校9年を終えた者について,企業による教育の下でなされ(ちなみにこの企業教育は私的なものでなく公的な職業教育とみなされる),通常3年の修業後,手工業会議所で職人審査を受ける。職人となった者は3〜5年の現場作業を経験したのちに親方(マイスター)審査を受けることができる。手工業マイスターとなれば,徒弟をかかえて手工業の独立経営をなす資格を有し,工業マイスターとなれば,企業の工場の中でマイスター職につく資格を得る。現代に生きるドイツ徒弟制度の歴史的重みが認識されよう。
〔参考文献〕伊藤栄『西洋中世都市とギルドの研究』1968,弘文堂書房
K.クーリッシェル,伊藤栄・諸田實訳『ヨーロッパ中世経済史』1974,東洋経済新報社
G.アンウィン,樋口徹訳『ギルドの解体過程』1980,岩波書店
中村賢二郎編『都市の社会史』1983,ミネルヴァ書房