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●都市人類学 としじんるいがく

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 都市に生きる人々の社会・文化・生活などを研究対象とする人類学の一分野。1960年代以降,急速に発展しつつある新しい分野である。

【都市と人類学】人類学は長いあいだ,小規模で閉鎖的ないわゆる未開社会を対象にして,全体的かつ通文化的な方法論を確立してきた。ところが,1960年代に入ると,人類学者が我さきにと“未開社会”を奪いあう風潮に対して,疑問と批判の声が高まった。ここに都市をフィールドとする人類学が脚光を浴びる素地が生まれたのである。しかし都市を対象とする人類学的研究は,第二次世界大戦前にすでに始められていた。アメリカでは,1929年に,リンド夫妻がコミュニティ研究の一環として『ミドルタウン』を発表していたし,1940年代にはウォーナーが,ニューイングランドの都市コミュニティを調査し『ヤンキーシティ』としてまとめていた。またヘルマンなどイギリスの社会人類学者たちも,1930年代には南アフリカの都市をフィールドにした研究に着手していたのである。

【都市人類学の領域】都市というきわめて多様で幅広く複雑で奥深い社会,文化を対象とする都市人類学は,その領域を一つのことばでまとめることを許さない。そこでこの領域をできるだけカバーするために三つの分野に分けてみるのが便利であろう。それは,[1]アーバニズム,[2]都市の貧困,[3]都市化という3分野である。

 都市には農村とまったく異なる一つのまとまった,そして共通の生活様式や集合表象があると考えて都市にせまっていくのが,[1]都市人類学の特徴だ。その原型は,レッドフィールドが1941年に出版した『ユカタンの民俗文化』に求めることができる。彼は,そこで民俗−都市連続体という概念を提唱した。それは,一方の極に,小規模で自足的・同質的・宗教的・人格的な民俗社会を仮定し,他方に大規模で複雑・異質・世俗・非人格性に満ちた都市社会を設定する。そして都市には,民俗社会とまったく異なる共通の特徴があるとするアプローチだ。これに対して,都市はさまざまな民族集団や階層の“寄せ集め”にすぎないと考えるのが,[2]の都市人類学の立場である。これは,レッドフィールドに対するオスカー=ルイスの批判によってかたちづくられた。オスカー=ルイスは,レッドフィールドが示した,農民社会と根本的に異なる都市的生活様式の一元的存在に疑問を投げかけ,ユカタンの都市においても農村にみられる伝統的社会関係が維持されていることを実証した。さらに彼は,『貧困の文化−五つの家族』や『ラ・ビータ』を著し,都市の貧民層が独自の生活様式と下位文化を形成し,それが世代から世代へと継承されていくことを示した。こうした視点は,たとえばギャンズ(H.Gans)など,アメリカ都市の少数民族(マイノリティ)についての都市人類学的研究に大きな影響を及ぼした。[1],[2]が主としてアメリカの文化人類学者によって発展させられてきたのに対して,[3]の都市化の人類学は,アフリカをフィールドとするイギリスの社会人類学者によって展開されていったということができる。そこでの関心は,ホームランドから都市に流入した膨大な数のアフリカ人出稼ぎ民の社会変化に向けられる。当初,マリノフスキーなどはこの変化について,文化変容理論にもとづきこう考えていた。つまり,都市に出てきたアフリカ人は,西欧的生活様式や価値観を受容して“脱部族化”していくというのだ。しかし,北ローデシア(現ザンビア)の銅山諸都市を長期的かつ組織的に調査したグラックマンを中心とするマンチェスター学派の人類学者によって,この通時的図式は斥けられ,代わって共時的な都市的・農村的社会関係が強調されるようになった。つまり,都市においてもアフリカ人は,状況ごとに西欧的価値規範と“部族的”価値規範を自分に都合のよいように選択しているというわけだ。この状況性・選択性に対する理解は,都市では一人ひとりが自分で社会関係を築きあげる“建築家”という発想を生んだ。こうして都市人類学は,自らの分野を確立しただけでなく,クラン・リニエジ・年齢組といった構造的集団が有してきた幻想的な軛(くびき)から人類学を解放するという役割も果たしたのである。

〔参考文献〕中村孚美編『現代の人類学,都市人類学』1984,至文堂