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●都市(日本) とし

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 現代日本の都市は,明治以来の欧米を模範とした近代化政策を反映して,東京・大阪の都心部にみられるように西欧の影響を強く受けた街区構成を採用している。しかしその一方で,首都を中心とする日本都市のすぐれて求心的な構造,地方分権の制度・思想の未熟さ,いわゆる“市民”的自治意識の低さ,京都・倉敷などのような伝統的都市の残存などは,西欧都市の在り方とは異質であり,むしろ東アジア型都市の系譜を引くものと思われる。このような日本の都市の複雑な構成は,“辺土小国”つまり東アジアの辺境という地理的条件と同時に,古代都市から封建都市,さらに近代都市にいたる都市形成の歴史的な在り方に起因していると思われる。古代の都城都市平安京は,外国使節や異民族の往来する国際都市であり,その後1,000年余にわたって天皇の在所・伝統文化の拠点として機能しつづけた。中世には東アジア海上交通圏と結びついた堺・博多などの“自由都市”が姿をみせ,また時を同じくして畿内近国に仏法領としての寺内町連合を基盤にした“本願寺法王国”が形成されんとした。このような地域住民による下からの都市形成の動きは,織豊統一政権の軍事的優越や鎖国政策によって崩壊したものの,江戸時代以後も在郷町などとして存続し,大名城下町に対して経済面での影響力を強めていった。一方,権力者が上からつくりだした首都江戸は,300年にわたる戦争なき“平和”の時期のうちに,100万人の人口を擁す世界最大の都市としての繁栄をきわめて今日に至るのである。以下,古代都市・封建都市・近代都市についてそれぞれの特色をみつつ,都市の歴史文化における現代を考える。

【古代都市】東アジアの古代都市の典型となるものは,国王の居住空間と中央国家機構の配置空間とを中心とする都城であり,“辺土小国”の日本もその例外ではなかった。7世紀の末近くまでは,天皇の代替わりごとに遷宮が繰り返されたが,孝徳天皇の650年(白雉1)10月に至って初めて中国風の都城である難波長柄豊碕宮(なにわながらのとよさきのみや)が営まれた。難波宮は現在の大阪府上町台地の北端部に位置しており,近年の発掘調査により,周辺の地山や古墳を破壊・整地するなど大規模な土木工事によって造営された,隋・唐以前の中国都城(北魏の洛陽城など)を模した都であったことが明らかにされた。しかし,現実には壬申の内乱後,律令体制の整備により官僚制度が充実していく中で都城は形態を整え,藤原京(奈良県高市郡,694〜710)になってほぼ完成した形態をなし,唐の長安を模した平城京(奈良,710〜784)や平安京(京都,794〜1868)になって初めて定着した。難波宮の建造物はすべて掘立柱建築の瓦を使用しないものであったのに対し,平城京は〈青丹よし奈良の都〉と歌われたように,青瓦と礎石柱を用いた唐風官舎,寺院の林立する国際都市であった。平城・平安両京とも,唐の長安の約4分の1の規模ではあったが,その都市プランは,方格的形態・礼的秩序による構成など多くの点で中国都城を踏襲していた。つまり,条坊制にもとづく碁盤目状の街路構成や朱雀大路の南面に羅城門,その裏部に東市・西市・東寺・西寺,北端に天皇の居所である宮城をおいて中核とし,官庁施設や貴族邸をその周辺に配置する構成である。中国都城制の影響は,このような都市内部の空間構成にとどまらず,都城そのものの選地にも及んでいた。藤原京・平城京・平安京などの立地選択は,現実の政治的条件(有力氏族・首長の本拠地との関係)や経済的条件(交通・流通の要衝地)を考慮した上で,中国古来の地相判断法である風水思想讖緯思想によって行われており,まわりをとりまく山地の位置とその形,河川湖海の位置と流れ方,方位の吉凶などが判断の材料とされた。一方,古代日本の都城は,中国の環濠城塞都城と異なって城壁を欠いており,都城それ自体の軍事機能は高くなかった。“自由な市民”層がイニシアティヴをもつ西洋地中海古代都市などと異なり,天皇を中心とした礼的秩序構成をとるアジア的古代都市においては,都市住民の生活に対する規制が厳しく貫徹しており,たとえば,商品売買なども官制の東・西両市に極限されるなど,都市住民相互の自治的組織の形成は阻害された。地方の諸国にも都城を模した地方官庁である国衙(こくが)や大宰府が設置され,その内部には国衙市や官衙の工房も設けられていた。しかし,これらは中央政府の出先き機関にすぎず,経済活動も中央都城の求心的流通構造に従属していたため,かえって地域的な経済発展を妨げる機能を果たしたともいえる。このような中央優位の日本古代国家の在り方は,東アジア全体の政治・経済体制である冊斜体制によって維持され,再生産されていた。地方・辺境農村に対する中央都市の優位,地方の在地首長層に対する中央国家の官僚の優位,さらに権力者による上からの都城建設と都市住民の従属度の強さなど,政治・経済両面にわたって求心的構造をもつ古代国家の在り方は,その後の都市の様相を強く規定していったのである。

【中世都市】11世紀後半以後,地方農村を基盤に成長しはじめた新興勢力の封建領主層(武士団・侍身分)は,中央国家の勢力の及ばぬ辺境地帯から政治的に結合を強化し,12世紀末には武家政権鎌倉幕府を成立させた。しかし,この新政権の成立が,ただちに古代以来の京都を中心とする求心的な経済構造の解体を推進したわけではなかった。東国・西国の有力武士たちの多くは,旧来の地方行政機関である国衙や郡衙の役人・在庁官人になっており,鎌倉幕府の成立後もそれらの機関を自らの地方支配に利用していこうとしたからである。国衙・郡衙およびその関連施設(港湾や宿),地方有力寺社(一宮・惣社・国分寺など)周辺の多くは,中世に入っても地方中核都市として機能をつづけており,鎌倉幕府の地方行政機関である守護の政庁(守護所)もこれらの地を利用した場合が少なくなかった。また東国の一海村に,新規に建設された武家の府鎌倉(神奈川県鎌倉市)も,その構造は封建都市というにはふさわしくない特異なものがあった。空間構成をみると,主要街路である若宮大路の北端には,幕府政庁でなく鶴岡八幡宮が配されており,その関係はむしろ宮城と朱雀大路に見合うものといわねばならない。このほかにも,中世都市鎌倉には,幕府政庁や御家人宿所の市街部での散在,一般寺社や墓地・被差別民らの都市周縁部への設置,都市住民への厳しい統制,“中国の租界”とみられるほどの大陸文化との交流,「道は鎌倉に」といわれた地方都市と鎌倉とを放射線状に結ぶ鎌倉街道に象徴される求心的・家産的経済構造,都市共同体の未成熟等々,当時の京都と共通する点が多かった。このことは,鎌倉が京都に対抗する東国の首都として登場したことの必然的帰結ではあるが,反面鎌倉幕府の権力体制が十分に封建化されていなかったことの現れといえよう。ただし,鎌倉は羅城を欠いた平安京などと違って,自然山陵を意図的に囲廊に利用した城塞都市であるという点で,武家の首都の独自性を示していた。一方,古代都市平安京の系譜を引く京都も,中世的権力に自己転化した朝廷・公家・諸官仕や権門大寺社などの王朝勢力・荘園領主の中枢として,大幅に様相を変えつつも中世の首都として存続・発展していた。空間構成をみると,大内裏王城鎮護の霊的空間と化して政庁の実を失い,多くの官衙は左京区に移って官衙町を構成,さらに諸寺社も左京の周縁部をとりまく形で立地している。より注目すべき変化は,律令制以来の条坊にもとづく町割りが崩壊し,四丁町・両側町(いわゆる「向こう三軒,両隣り」)などという地域単位の出現,すなわち町衆による町共同体の存在を前堤とした町割りに移行した点である。これらの動向の背景には,飛躍的に発展・充実した洛中・洛外の経済機構と商業活動への町衆の多様な参加があったことを,あわせて理解せねばならない。古代の官制の市は実質的経済機能を失い,それにかわって三条町・四条町・七条町の辻など新たに形成された商業地区が京都の経済・流通の中心地として繁栄した。また,南都の奈良・大津(滋賀県大津市)や坂本(滋賀県大津市)・宇治山田(三重県伊勢市)・大宰府・博多(福岡県福岡市)など古代以来の交通都市も,荘園領主となった有力権門・寺社群の門前町・港町として変容しつつ存続していった。以上は,古代以来の都を中心とする求心的流通構造の枠組の上に展開した中世都市の事例であるが,14世紀の南北朝内乱期以後になると全く新たな中世都市が出現してくる。

 南北朝期前後より,宋から明に至る対外貿易(倭寇などの広範な私貿易も含む)活発化と国内の社会的分業の進展に伴い,全国的な海運ルートが形成され,各地に巨大な港湾都市が輩出した。日本海海運ルートの最北端にあたる十三湊(青森県南津軽郡)や,瀬戸内海水運の拠点草戸千軒町(広島県福山市)などが代表的なものであり,これらの故地からは近年の発掘調査によって大量の青磁・白磁および国内古窯製品や古銭・工貢・生活遺跡が出土した。時の権力者である鎌倉北条氏は,広域流通網の育成・掌握に強い関心を示したため,地方都市の形成は急速に進行した。このような全国規模の流通経済の活発化は,国内市場や農山漁村の在り方にも影響を及ぼした。荘園村落内には,農業生産力の発展と地域的分業の展開に伴って宿駅や市場が立てられ,地方領主や住人層が広範に商品経済にかかわっていった。市立ての回数はしだいに多くなり,宿場や店舗が営まれるに至って恒常的な町場が各所に形成された。このような地方の町場の少なからぬものが,郡界・村界や河原・浦泊・寺社門前など個々の領主の支配が及ばぬいわゆる「境界領域」に立地しており,一種のアジール(避難所)空間としても機能した。室町時代も後期になると,このような地方都市の中には,地方住人が自治的運営を行う自由都市も出現した。海外貿易の富を集めた富裕な町泉州堺(大阪府堺市,かつては文字どおり摂河泉三国の境界だった)や博多などの自由都市は有名だが,富田林(大阪府富田林市)・貝塚(大阪府貝塚市)など摂河泉地方から北陸一帯に広がった一向宗寺院を中核とする寺内町,堅田(滋賀県大津市)・菅浦(同伊香郡)・高島(同高島郡)など琵琶湖岸の商業集落群がこの事例にあたる。これらの都市は,乙名衆会合衆などと呼ばれる数名の町共同体指導者の合議によって運営されており,城壁や環濠,傭兵など防衛施設を備えたものも少なくなかった。寺内町富田林が,中野村・新堂村・毛人谷村・山中田村の周辺4カ村住人によって建設され,各村二人ずつの有力者を出して「八人衆」で町政を運営したことからもわかるように,寺内町や自由都市は周辺村落の住人がつくった町であった。畿内近国におけるこのような地域住民の町づくりの動きに同時平行して,封建領主層の町づくりすなわち城下町の建設が行われたのもこの時期の特徴だった。鎌倉時代以来地方の武士は,自分の居館地の周辺に市場や宿を立て,技術者集団を集住させるなど自給的な経済体制をつくる動きを示していたが,本格的な封建都市を形成する動きは,やはり戦国時代における大名の城下町建設を待たねばならない。中世の城下町は,景観的には家臣団居住区と市町宿など商人職人居住地区とが分離した二元的構成を示しており,いまだ近世城下町にみられるような城と町の一体化,強固な町場規制は実現されていなかった。しかしながら,城下町は戦国大名・戦国領主の領国経済の要として,領内の地域市場を従属させ,一種の独立国・極地的な経済圏を形成。中世前期以来の京都・鎌倉を中心とする求心的経済構造を解体させていく原動力となったことは否定できない。このように戦国期においては,下からの自由都市・寺内町形成と上からの城下町形成の二つの潮流が競合しつつ進行していたが,両者の都市プランを比較し,その差異に注目したい。寺内町が住民の信仰生活の拠点である寺院を中核にすえ,都市自衛のための環濠や城塞をめぐらしたのに対して,城下町の場合は民衆には閉された場である城郭を中心とし,防衛施設は城郭部のみで城下町はほとんど無防備に放置された。その結果,戦争の際には多く敵の放火するところとなり,城主自らの手で自焼させられることも稀でなかった。このような相違は,究極的には町共同体の力量の優劣に起因すると思われる。戦国時代も末の統一政権成立期になると,自由都市型の中世都市は戦国武将たちの城下町によって屈服させられていく。10年にわたる石山戦争(1570〜80)の結果,石山本願寺派一向宗の寺内町連合は織田信長軍の軍事的優位の下に敗れ,畿内政権としての「本願寺法王国」樹立の夢は破れ去った。寺内町の多くが自治機能を停止させられ武装解除される中で,東アジア交易を背景に海に開かれていた堺・博多以下の自由都市も,豊臣・徳川政権の制限貿易政策(鎖国)によって列島社会に孤立し衰退していった。こうして日本における西欧型自由都市の芽はその萌芽段階で摘みとられていった。近世城下町の先駆形態とされる安土城が建設されたのは,1576年(天正4)のことである。

近世都市織豊政権の後をうけた江戸幕府は,幕藩体制の下に全国に城下町を配置した。幕府の所在地である江戸(東京都)には,大名・旗本の屋敷が集中する武家の都市であり,参勤交代によって膨大な家臣団をつれた武士・貴族が生活を営む一大消費都市であった。18世紀初の人口はおよそ100万前後とされており,当時の世界最大の都市だった。大坂とのあいだには海路がひらけ,樽廻船菱垣廻船が運航しており,全国の城下町には五街道(東海・中山・奥州・甲州・日光)が通じていた。五街道の起点である日本橋周辺は商業地区として繁栄しているが,首都江戸の土地利用は武家屋敷約7割,寺社地と町屋が各1割5分ずつという内訳であった。武士の集住する巨大消費都市江戸に対して,大坂(大阪市)は「天下の台所」と称される商品流通都市・商人の町であった。中世には「石山本願寺法王国」の首都として繁栄した大坂は,中世以来の寺内町群という広範な後背地をそのまま継承し,海陸交通の要衝地として問屋が同業者町を構成していた。用排水や水運のために開削された堀や川に囲まれた島内では,各種の百貨が取引され,堂島には米市が立って諸藩の蔵屋敷に米が収納された。古代以来の都市京都もまた天皇の「首都」として独自の伝統的文化都市となり,「三都」と称された。全国の城下町に“小京都”すなわち京都の景観を模したものが多かったことも,当時の人々の京文化への憧れをうかがわせるものである。また堺などの中世港湾都市は,“鎖国”によって長崎以外は門戸を閉したが,沿岸航路の要地として幕府直轄都市にされていた。幕藩体制の成立によって,全国には一国一城を原則として城下町が配置された。これらは中世の城下町にみられたような城郭部と町部の空間的分離は解消され,両者は有機的に結びつけられている。つまり,城郭を中心として周囲に武士団居住地をおき,屈曲しながら貫通する都市間の道路沿いに町人地を町割りし,町人地では防衛的配慮として食違い,T字路などの街路形式が採用された。また兵農分離によって都市への常住を義務付けられた家臣団と商人・職人の居住区は明確に区分された。また町人町も,その職種に応じて紺屋町・呉服町・大工町・博労町などに区分され,他国から来住した商人たちは,屋号や町名に出身在所名を付して集住した。城下町の商工業者たちは,封鎖的な株仲間組織によって生産と流通を固定化して独占したので,領内の在郷商人・小商人たちは成長を阻害された。以上のように,近世幕藩体制下の基本的都市は,江戸・大坂・京都の三都と全国の城下町・幕府直轄都市であるが,それが近世都市のすべてではなかった。宿場町・門前町・在郷町などの存在である。宿場町は東海道五十三次中山道六十九次で知られるように,街道・駅制の整備とともに成長した幕府公認の宿駅だった。町の両端には枡形または下座場が設けられ,大名の宿泊する本陣を中心に脇本陣・一般旅籠屋・茶屋・問屋などで構成されていた。街道・宿駅の整備によって,お伊勢まいりや西国巡礼など民衆の旅行や遊山も広範に行われるようになり,善光寺(長野県)・高野山(和歌山県)・伊勢(三重県)など民衆の信仰の的となる寺社の局辺には娯楽・宿泊施設をかね備えた門前町が成長した。交通との関係で忘れてならないのは,利根川水系河川(江戸―坂東)・淀川(大坂―京都)などの内陸河川交通の比重の高さであり,その河岸には文字どおり河岸と呼ばれる「川の港」河端集落が広がっていた。河岸は,船着場を中心に河岸問屋・仲買や交通運輸業関係の商人・職人あるいは無宿者や遊女が集住する“村の中の都市”すなわち在郷町であり,江戸・大坂への年貢米・物資輸送の拠点としてにぎわった。幕末期の利根川には300余に及ぶ河岸があったが,近代化に伴う鉄道敷設を境にしだいに衰えていった。在郷町の中には,長浜(滋賀県)のように中世城下町や近江八幡(同)のような商人集住地も少なくないが,貝塚のように中世の寺内町や村町場に出自をもつものが多かった。「本願寺法王国」の遺産であり,近世都市の“異端”として出発した在郷町は,元禄期前後より急速に成長しはじめ,藩経済を支える後背地としての役割を高めて城下町の質的転換を迫まるまでに至った。

【近化以後の都市】米・英以下西欧資本主義国の市場として開放されたことを直接の契機とし,日本の封建都市は近代的な都市へ転換した。城下町の多くは県庁所在地として地方の政治・経済・文化の中核となり,館林(群馬県)・彦根(滋賀県)・萩(山口県)なども地方産業・史跡観光の町として各々存続した。横浜・神戸は対外的窓口として繁栄し,江戸・大坂は東京・大阪となって近代都市に脱皮した。1888年(明治21)の市町村制の制定後,都市計画は明治政府の上からの近代化政策と相まって急速に進められた。日清・日露戦期には,輸出向け繊維工業が発展し,甲信越一帯に生糸・絹織物工業都市が,東海から阪神に綿糸・綿織物工業都市が成長。これらの背景に,いわゆる“女工哀史”といわれた低賃金女性労働者の犠牲や政府の強引な誘致政策があったことは広く知られるところである。日露戦争(1904〜05)後は,重工業を中心とする第2次産業革命を完了し,第一次世界大戦後の戦間期には,東京・川崎・横浜・名古屋・大阪・堺・尼崎・神戸・北九州などを中心とする四大工業地帯が形成された。このような工業化社会への動きは,15年戦争(1931年満州事変〜1945年太平洋戦争敗北)に伴う物・心両面の荒廃,さらに敗戦から米国占領によって挫折したかにみえたが,朝鮮戦争(1950年)を契機とする米国の政策転換と冷戦体制下で急速に復興させられた。とくに1950年代後半以後の高度経済成長政策の一定の成功は,大都市への人口集中を激化させ,都市部での過密住宅問題をひきおこす一方で,農山漁村の過疎問題が深刻化するに至った。公害問題環境汚染など高度工業化社会のひずみは都市部に集中的に現れており,地方出身者の増大や転勤による都市間移動,核家族化現象などは,都市住民の「故郷を失う現象」をおしすすめている。が,その一方で環境の保全や住み良さに対する地域住民の権利意識が高揚し,住民運動の地域ネットワークが形成され,このような運動を基盤にして大都市部に革新自治体が輩出した。また70年代半ば以後現代に至る出口のない低成長時代になると,明確なスローガンをもった地域住民運動の成長と同時に,一見非政治的ではあるが,確固たる基盤をもったマイホーム主義・私生活中心主義が都市住民のライフ=スタイルとして定着しはじめた。自分の生活こそが公であって,それ以外は政治も国家も私事で無関係だという公私観念をもつこのライフ=スタイルは,西欧型の“市民”的自治意識とは異なるミーイズムであるが,滅私奉公の精神構造の根強い日本に初めて現出した価値観の転換といえるかもしれない。このようなライフ=スタイルを有す都市住民は,現状維持を望むという点で保守的ではあるが,地域住民連動との関係いかんでは,国家本位の都市政策に対するブレーキとして機能する豊かな可能性をも秘めているといわれる。