●都市(中国) とし
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都市をどのように規定するかはきわめてむずかしい問題である。広大なアジア大陸諸地域にはメソポタミア・インド・中国の三つの古代文明が発生したが,それぞれの地域に都市の発生がみられた。このほかこうした文明の交流のルートやその周辺でも都市が発生している。たとえば,シルクロードで名高い中央アジアの各所にもオアシス都市が発生しており,都市発生の要因やその形態には多くの相違点・特色がみられるからである。しかもこうした都市は産業革命の進展によって出現した都市や新大陸に出現した都市などとも区分して考えねばならない。ここでは歴史的範畴における都市を扱うが,それも大方の地域に共通の一定の個所に一定以上の人々が集中して住み,商工業を主体に営む地域であるという素朴な認識を共通のものとして論じることにする。中国において都市の発生をいつの時代に求めるかは,きわめてむずかしい問題である。だが,現在の段階ではこれを殷代に求めるのが妥当であろう。殷の王都として名高い殷墟(河南省安陽)はそうした殷代の都市の代表的なもので,大邑商もしくは天邑商などと呼ばれていた。王の宮殿や祖廟を中心にして内には商工民を住まわせたもので,周囲は城壁によって囲まれている。河南省鄭州にある都市遺跡は殷墟に先立つ王都と推測されているが,変則的台形をした巨大な城壁が南北が1,750m,東西では最長が2,000mという規模で存在している。古代都市の実態を示すとともに,王都という点もあるが,巨大な都市の存在を認識させるものとなっている。したがって中国における都市の発生は,その起源を前15世紀以前に求めうることとなるが,同時に中国の都市も古代オリエントやインドの都市と同様に城壁都市として発生したことを示している。ただこれらをオリエントその他の地域にみられる都市国家と同様のものとみなすか否かは議論のあるところである。「國」という字は人と土地が戈(か)によって守られ,さらにその周囲を城壁が囲んでいる型と解すれぱ都市国家の形態を示すと考えられなくもない。しかしたとえばギリシアのように,アクロポリスや民会をそなえた都市国家とみなすにはなお検討が必要であろう。この問題は殷自体を都市国家とし,その傘下に都市を集合させたものか,邑の連合体とするかにも発展するが,少なくとも都市の形態を示すものとして参考に供しうる字形である。都市の様態がいっそう明らかになるのは殷につぐ周の時代である。王都の鎬京・洛陽は名高いが,ほかにもいくつもの都市があった。中国古代都市の様態がいっそう明らかになるのは,東周のいわゆる春秋戦国時代になってからである。殷・周とつづいてきた中国文明の発展は,商工業の発展とあいまって都市の発展を促す。古代中国にあって都市とは元来,政治的・軍事的なもので,いわば支配の拠点であった。しかし都市およびその成長は一面で社会・経済の発達とみあうものであり,鉄器使用の普及に商業の発達と土地利用・農業生産の拡充・遠距離貿易の進展などは,いずれも都市の成長を促す要因である。春秋戦国時代はまた周の支配力が後退し,列国が抗争した時代でもあった。列国の抗争のために商工業が進展したが,都市も発展したのである。今日に知られる中国の都市のなかには,実にこの時期にその端緒をみいだしうるものが少なくなく,春秋戦国期の都市の重要性を示している。春秋時代から戦国時代への都市の変化は著しいが,都市人口についてみると,春秋時代の戸数が1,000戸未満と推測されているのに対して,戦国時代になると1万戸以上の都市が出現してくる。趙の邯鄲・燕の下都はその代表的なものである。『戦国策』には蘇秦が斉の都のリンシ※注1※を語って,戸数7万で町は富み娯楽も盛んだとしている。リンシ※注1※には商工業区があっただけでなく,稷門の側に諸子百家が集ったアカデミー地区があり「稷下の学」をも形成している。こうした逸話や近年の考古学的成果から古代都市の形成と発展が理解できるが,古代都市史の上でさらに重要なのは統一帝国秦の出現である。秦・漢とつづく時代はそれまでの古代文明の集大成の時期であるが,前漢武帝の儒学登用に代表されるように中国の儒教化への分水嶺の時期でもあった。中国の都市は早くから計画性をもった都市として出現しており,大きさその他についても墨子の都城論が示すように鋭い洞察が行われていた。儒教の国教化はこうした都市設計理論にも大きな影響を与え,以後2,000年の中国の都市理論理解に問題を投げかけている。秦の咸陽・漢の長安城は都市建設理論の転換期の国都としても貴重である。秦は周知のように中国統一後は全国に郡県制をひく。その行政単位の県はかつての都市を基準にしたと考えられる。県は一律でなく大小があったが,約40km四方,戸数1万を標準の区域として行政の中心を都市に置いた。政治の中枢の置かれた県治は城壁で囲まれ,それゆえに県城とも称した。すなわち,都市は都市のみとして独立していたのでなく,周辺郊外をも含む行政体制をひいていたのである。郡はこれまた一律でないもの,10前後の県で構成され,県治の一つが郡治をかねた。郡治の置かれた県城が他の県城より大きく,商工業が盛んであったのはいうまでもない。ちなみに郡治クラスの都市よりさらに大きいのが国都もしくは国都クラスの都市であった。郡県制の成立は都市の階層化をもすすめたのであるが,中国都市の一つの特色として秦・漢以来から近世にいたるまでこの都市の階層が存続してきた点が挙げられる。しかもこの2,000年のあいだ,国都クラスの都市数個,郡治クラスの都市100〜300,県治クラスの都市が1,000〜2,000,総計2,000前後という恒常的数値でヒエラルヒーを構成してきた点も注目に値する。宋代を例外として人口が明中期までほぼ恒常的に6,000万人程度であったとはいえ,中国領域の拡大・政治組織の緻密化・商工業の発展・社会の変化を体験し,さらには都市自体の興廃はありつつも,都市の総数(県城数)が基本的には変化しなかったのである。なお,中国都市は囲壁によって囲まれるのが通例で,古来から土を固める版築という方法でつくり,その土を掘りだした後で城濠を形成するスタイルが主体であった。しかし城壁の建設および城壁を「磚(せん)」(レンガ)でおおうなどの工夫が拡大していくには時間がかかっている。唐末四川の成都のように,大運河の要所として栄えた揚州についで当時第2の都市といわれながらもなお城壁のない都市もあった。都市を完全に城壁で囲む方式が全中国に普及するのは,征服王朝の発展に伴う異民族の侵入の深刻化とあいまってのことである。古代中国の都市形態は,唐の長安城によって一つの到達点を得た。城壁の建設・発掘報告その他が示すように,中国の都市には計画性が強く形態にも特色があった。問題のある書ではあるが,『周礼』も都市レイアウトを示し,王都は方形で各面に3門ずつ合計12門をひらくこと,都城内では宮城・民家・宋廟・社稷の位置を定めることを堤唱している。こうした都市プランが実際に遵守されていたか否かは論の分かれるところであるが,都市設計に際して意識されていたことは疑いない。歴代王朝の国都もしくは国都に準じる都市であった秦の咸陽,前漢の長安(西安),後漢の洛陽,三国魏のギョウ※注2※都,三国史以来東晋・宋・斉・梁・陳6代の国都建康(南京),北魏の洛陽,唐の長安・洛陽,北宋のベンキョン※注3※(開封),南宋の臨安(杭州),遼・金・元・明・清・中華人民共和国の北京などは,こうした都市プランのみならず当時の社会・経済などの実態を集約したものとして注目に値する。『周礼』に示す王都のレイアウトを設計段階においてでも完全に実行したケースはない。しかし,南北に中心軸をとり,方形もしくは矩(く)形で,宮城を北もしくは中心に位置させ,礼的秩序をつらねかせ,形態として環濠城塞都市をとる点はおおむね共通している。唐の長安城はこれらを最もよく集約しえたものであり,東・西両市の配置,左右バランスのとれた坊制(居住区画)の配置は整然と直交する街路とともに,都市理念の完成された一つの姿を示している。こうしたレイアウト面の基本は,地方支配の拠点であり地方における国都代行の機能をもつ郡城・県城にもみられる。もちろんこうした都市の形態は土地の制約を受けることも多く,円形もしくは楕円に近づくこともある。しかしおおむね南北に軸をとり,方形・矩形への指向をたどり,首路は直交もしくはT字路の組み合わせの形をとる。『周礼』の都城理論と若干のズレがあるものの,いくつかの共通点もあり,郡城・県城の上に立つ唐長安城が東アジア世界の諸都市のモデルとなっていくのは,理念の集約が整備されていることにも一因があろう。中国の都市が大きく変化し始めるのは唐宋の変革による。政治的には唐の支配力の衰退,経済的には商工業の発展がその主因である。城壁そのものは明・清時代になるまで撤去されることはなく,むしろ強化されていくが,唐までの都城内の規制は崩壊していく。商業区域を特定地域に指定する市制の崩壊,城内を区画し居住地を配置する坊制の崩壊はそうしたものの代表であった。これにあわせて夜間通行を禁止する犯夜の禁もしだいにゆるみ,侵街の禁も破られる。宋以後の都市では唐の長安・洛陽に典型的にみられた整然とした街並みが消滅していくが,これはこうした一大変革を示すものである。市制が崩壊した結果城内各所に商業区が出現し,夜間通行も行われて早朝や夜遅くまで営業をする店も出現する。各所に盛り場も出現して庶民生活と文化の向上をもたらした。こうした実態は北宋の都開封の様子を伝える孟元老『東京夢華録』によく記述されているところである。唐まで長くつづいてきた諸規制が払拭されたのである。そして政治的・軍事的都市に加えて商業都市の誕生をみた。さらに中小の都市の発達も顕著な現象の一つである。六朝以来,交通の要所や都城近郊に市がたつようになり定期市に発展していった。都城内の市より粗末な市という意味もこめて草市などと呼ばれたこの種の市は,唐以来の商業や交通の発展に伴い,しだいに中小の都市へ成長していく。このほか,北魏が大軍を駐屯させたことに始まる鎮もまた発展し,唐末の混乱の中で節度使が鎮将などを置いて徴税の対象とするほどになった。鎮・草市は嶺南地方では墟・墟市と呼ばれ各所に多く出現したが,宋代になって改廃・整理を受けながら行政機構のなかに組み込まれていった。これらは唐宋間の都市の変化が単に大都市に及んだだけでなく中小の都市におよび,中国各地に都市化現象の生じたことを示している。なお,鎮が行政組織に組み込まれたのは宋代のみであったが,今日も地名としてのこっているところも多い。中国人は都市建設者としてユニークな存在であり,数千年にわたって都城制を維持してきた。唐宋間の都市変革はそうしたなかでとくに注目すべき出来事であったが,しかしなお西欧の都市と異なる歩みをしていったことにも目をとめておかねばならない。「自治なきマンダリン(官僚)の都市」とは中国都市に与えられる表現である。中国の都市は政治の中枢として存在し,著しい経済の発展にもかかわらず,西欧のように市民階層が成長し都市文化が展開して自治都市が出現するという形態にたどりつけなかった。近世のめざましい発展にもかかわらず,そこに西欧形の都市をみることは困難である。都市行政においても,都市と農村部が分離することはなく,元代を除いて包括的行政がとられることがふつうであった。中国都市は西欧型の発展形態をたどらなかった典型的例とみなすことができようが,その一方で明・清時代の経済的発展を背景にした都市の発展もめざましく,たとえ西欧型の都市の発展はみられなくても都城内部にさまざまな変化・発展がみられたことは注目しなくてはならない。こうした都市形態にきわめて大きな変化が生じていくのは,おおむね19世紀以後のことである。西欧資本主義の進出をうけ貿易港がひらかれるとともに,沿海地方には上海・青島・大連などの西欧型の都市も建設された。ことに上海は今日の中国のみならず世界でも有数の都市に発達したので有名である。しかし海岸線の都市の変貌に対して内陸部の都市は旧来のままにのこされていた。中華人民共和国が成立して従来の半植民地状態や内部分裂が克服されて社会主義の建設がすすむと,内陸部の都市にも大きな変化が生じるようになった。経済の進展・工業化のなかで近代都市が多く出現し発展をするようになった。現在の中国都市は行政的には3クラスに分けられ,中央政府の直轄する直轄市・省,または自治区の管轄する省(自治区)轄市・専署(省と県の中間行政庁)もしくはそれに準ずる政庁(自治州・盟・行署・省轄市など)の管轄する都市がある。このほかとくに行政的区分に入らぬ小都市も多い。こうした中国都市のなかで最大のものが北京・上海であることはいうまでもない。〔参考文献〕加藤繁「宋代に於ける都市の発達に就いて」『支那経済史考証』1952
斯波義信「中国都市史研究から」『講座−日本の封建都市』1,1982
山根幸夫「中国中世の都市」『中世史講座』3,「中世の都市」1982
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