●都市(西洋) とし
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【歴史的都市論の意味】現代社会のかかえる多くの問題がある意味で都市生活の危機から生じているとすれば,こんにち,生活空間・文化的空間としての都市の危機の克服と再生という問題意識のもとに,世界史的見地からの都市の比較史的研究が盛んになってきたことは当然であろう。こうした研究の手引書の役割を果たしてきたのはウェーバー(Max Weber,1864〜1920)の『都市の類型学』(世良晃志郎訳,1964,創文社)である。ウェーバーは経済・文化・政治・宗教などさまざまな観点から世界史上の都市的現象を考察し,そこから,古代,とくにオリエントやアジアにおける政治都市・行政都市・神殿都市・宮殿都市,近世の君侯都市・要塞都市,あるいは生産者都市・消費者都市などの都市の諸側面・諸類型のイメージを浮びあがらせている。しかし,本書を貫いているのは,なぜヨーロッパにおいてのみ合理的な近代資本主義と市民社会が成立したのかというウェーバーの生涯かかえていた問題意識であり,そのため叙述の中心はヨーロッパ中世にのみ,みられたゲマインデ(Gemeinde)たる性格をもつ自治都市共同体の成立と構造を,非ヨーロッパ世界の都市や古典古代のポリスとの対比において明らかにすることに置かれている。最近の日本中世都市史研究の成果をみれば,こんにちではウェーバー的視点からアジアの都市を,ゲマインデたる性格を欠く政治都市・君侯都市と一面的に規定することは適切とはいえないだろう。しかし重要なのは,アジア都市においてヨーロッパ的な都市共同体の諸要素を発見し,強調することではなく,世界の各地域・各時代における都市と農村の関係を明らかにし,それによって各地域において都市のあり方を規定する社会構造全体を把握することである。都市がそれ自体で自立し得ない存在であり,豊かな都市生活にとって農村部との自由な相互関係が不可欠だとすれば,都市文明の将来のためには,都市が農村を荒廃させ,あるいは農村生活を犠牲にしつつ異常な膨張をとげるごとき一方的な関係を克服し,両者の互恵的な関係を確立することが急務となろう。また“根無し草”的な現代都市住民のためのコミュニティ形成といった問題意識からは,おのずと都市史に現れた人的結合のあり方への関心がひらけるだろう。こうした観点からヨーロッパ都市史を概観してみよう。【古典古代の都市】ギリシアのポリス(polis)は複数氏族のアクロポリスの周辺への集住によって成立した都市国家であり,その市民権はポリスの兵士たること,市部周辺に農地を所有することと不可分の関係にあった。商工業には主として非市民(在留外人)や奴隷が従事した。この意味で,ポリスは戦士共同体であり,政治都市・消費者都市であり,一個の巨大な農村であったともいえる。ローマの支配は一種の都市連合を基盤としていた。それらの都市のあいだには植民市・自治市・属州市などのランクがあったが,いずれも早晩ローマ市民共同体に,換言すればローマ市民権をもつ支配者の政治的共同体となった。この意味でローマ都市もギリシアのポリスと同様の性格をもつものであったといえる。
【中世都市】現代ヨーロッパ都市の出発点は中世にある。古典古代の都市に対し,中世都市の特質は第1に商工業者の,定住によって成立した生産者都市・市場都市であり,第2に一定の自治権をもつ共同体であった点にある。古代ローマ都市から中世都市への連続性は当然ながら,ウェーバーが“南欧型都市”と呼んだイタリア・南フランスの都市の場合顕著である。とくに北イタリア都市は11世紀以降の東西商業の繁栄を基盤として,ローマ以来の市域であるキウィタスを拡大させる形で発展し,11世紀末以降自治団体たるコムーネを形成していったが,コムーネはやがて周辺農村部の地主・領主をも自身のうちに吸収することによって,狭義の市域外の広範囲な領域を支配する都市国家となった。この点に“北欧型都市”とは異なる独自の都市・農村関係をもつ,古典古代以来の地中海都市文化の伝統を見ることができる。ライン地方から北フランス・低地地方にかけての“北欧型都市”の発祥地域では,ローマ都市は著しい人口減と市域の縮少を伴いつつも,市壁とその内部の司教座教会を中心に中世初期の混乱期を生きのびた。そして11世紀から,商業の復活とともに出現した遍歴商人たちはこのようなローマ都市の郊外や諸侯の城砦の周辺に定住するようになった。こうしてピレンヌやプラーニッツが指摘する,“北欧型都市”固有の地誌的二元構造が成立する。彼らは,司教や諸侯などの都市領主の直接支配を避けるために,ローマ都市の市壁や城砦の外部に接して形成された商人定住区のなかに,自治共同体形成を推進する新しい力を見出そうとした。ケルンではローマ市壁に接した郭外定住区の商人団体を中心とした,都市領主ケルン大司教に対する11〜12世紀の闘争をへて,やがて旧市域をも吸収した都市共同体が成立した。ほぼ同時期に同様な運動によって下ライン・北フランス・低地地方では,多くの自治都市共同体が成立した。またこの共同体形成においては“誓約”という行為が決定的な意味をもった。ウェーバーは,キリスト教的な“誓約”あるいは“兄弟盟約”という人的結合形式によって,ヨーロッパ中世都市では,東洋都市における共同体の形成を妨げていた氏族的・部族的・カースト的・呪術的な制約が克服されたのだとする。以上のような中世都市成立論に対しては次の点を指摘しうる。中世都市のなかには,地誌的二元構造を示さず,領主支配下の空間のなかに商工業集落の形成が進み,また領主の特許状付与や住民による自治権の買い取りなど平和的関係のなかで一定の自治をもつ都市へと発展するケースが多かった。また有力領主は13世紀以降,自身の支配領域の発展のために,しばしば一定の自治権の付与によって都市の成立を促した。ライン以東の都市の大半は,このような建設都市の類型に属すものである。またたしかに都市地域は,都市法のみが妥当する自立的法域であり,一元的裁判区であったが,その内部においては,統一的な都市共同体成立以前からの,古い農村的団体や教区共同体などの個別的な地縁団体が,都市生活のうえでなお重要な意味をもっていた。さらに個々の市民の家内部は,その家長の強力な監督権のもとにあり,市当局の裁判権・警察権の介入さえ著しく制限され,特別法域をなしていた。こうした点に着目すれば,ウェーバーのいう共同体(ゲマインデ)としてのヨーロッパ中世都市の本質規定も再考の余地があろうし,また警約的結合以外の,都市社会における多様な人的結合・隣人関係の形成の実態を明らかにすることもできよう。
【ヨーロッパの都市と農村】ヨーロッパ中世都市は市壁で画定された独自の法域をなし,政治的には封建支配下の農村部と対立するものであったが,社会的・経済的にみれば,周辺農村との有機的な結合を不可欠の前堤としていた。とりわけ食糧調達は都市の生命線であったといえる。アルプス以北の中世都市の人口規模が,パリを除けば最大級の都市でも2万〜3万人であり,90%以上の都市の人口は2,000人に満たぬものであったことは,当時の市場経済の限界のみならず,農業水準と穀物市場の狭さに起因する食糧調遵の困難さを示している。したがって大半の都市の市民は市内外に耕地・放牧場・ぶどう園などを所有し,家畜を飼育したのであり,中世都市はなお強く農村的景観をとどめていた。また都市人口は都市内の死亡率の高さのゆえに,周辺農村部からの不断の人口流入によってのみ維持されえた。中世都市民とは2〜3代さかのぼればほとんどが農民だったのである。このように中世都市のあり方は現代都市とは異なり,根本において周辺農村部の社会経済的状態によって強く規定されており,したがって都市当局と市民は農村部との良好な関係に配慮せねばならなかった。つまりアルプス以北の都市は,ポリスやイタリアのコムーネのような,農村部を直接支配する都市国家をなさず,一方で市壁によって自身を農村部から分離させつつ,他方で食糧を含めた市場交易・人的移動等を通じて農村との緊密な結合を有した。このような両者の相互的関係は,農村部でも都市同様に一定の自治をもつ村落共同体を生み出す背景となったのであり,この関係は近世に入って,手工業をめぐる都市と農村の競合の顕在化によって硬化するものの,工業化時代までのヨーロッパ社会の基本構造を規定したといえるだろう。
〔参考文献〕ピレンヌ,佐々木克巳訳『中世都市』1970,創文社
プラーニッツ,鯖田豊之訳『中世都市成立論』1959,未来社
オットカール,清水・佐藤訳『中世の都市コムーネ』1972,創文社
レーリヒ,小倉・魚住訳『中世ヨーロッパ都市と市民文化』1978,創文社
井上泰男『西欧社会と市民の起源』1976,近藤出版社