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●時計 とけい

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 時計とは時間の経過あるいは時刻を表示するようにした装置。表示時間の範囲は時代や社会環境とともに変化してきたが,現在では広くはカレンダー時計が示すように1カ月内の経過日数,最小は秒または数百分の1秒である。経過時間を記録する計時装置にはストップウォッチやタイマーがある。時計の歴史は大きく分けて機械時計以前と機械時計の歴史に分かれる。

【機械時計以前の時計】人類文明は時間認識の歴史であり,時間認識の歴史が時計をつくってきた。人類の文明発生地の一つエジプトでは,毎年シリウス星が日の出直前の東の空に昇ってくると,ナイル川が氾濫することを経験的に知り,この時点を暦の上での1年の始まりとし,同じく日の出をもって1日の始まりとした。シリウス星の回帰は365日ごとにあるので,エジプト暦ではこれを1年とし,1日は日の出から日没までの昼間の時間および日没から日の出までの夜間の時間をそれぞれ12等分する不定時法が用いられていた。こうして古代エジプト・ギリシア・ローマ時代から中世を通じ,ヨーロッパでは一般的に不定時法が用いられてきた。したがって1日の昼と夜の長さは,季節と緯度によって異なっていた。

 ところで古代・中世の時計としては,日時計水時計火時計砂時計などが用いられていた。エジプトの日時計の歴史は前15世紀にまでさかのぼることができるが,そのうちの一つが現在ロンドンのテムズ川のほとりに立っている「クレオパトラ=ニードル」と呼ばれる巨大な石のオベリスクがそれである。これはもとカイロ郊外にあって古代には日時計として用いられていたものである。イギリスのソールズベリー近くにある巨大な環状列石ストーンヘンジの遺跡も古代の日時計の跡ではないかといわれ,わが国では秋田県大湯の野中堂遺跡の環状列石も,縄文時代の日時計の跡といわれている。水時計もすでに前数世紀ごろにクレプシュドラと呼ばれる水時計が用いられていたが,アレキサンドリアのクテシビオス不定時法を表示できる水時計を考案した。これは流量を一定にする調整弁をもち,うきの上部にとりつけられた指針で目盛りを指示するようになっていた。しかもその目盛りは季節によって時間の長さが違うため,季節に応じて調整するようになっていた。

 中国では天文機器としての水時計が古くから発達していた。2世紀初め張衡(ちょうこう)がつくった水時計は,惑星の動きを模型によって観察する天球儀あるいは渾(こん)天儀を動かすために用いられた。その後も中国では,水時計は単なる時計ではなく天球儀もしくは渾天儀として発達したが,とくに1088年蘇頌(そしょう)の製作になる渾天儀は高さが10〜12mの巨大なもので,内部機構は水車で動く時計仕掛けにより,時間がくれば鐘が鳴るようになっていた。そこにはすでに歯車とか脱進機が使用され,機械時計の一歩手前まで近づいていた。

 日本では671年,『日本書紀』天智天皇の条10年〈漏剋を新しき台(うてな)に置く。始めて候時(とき)を打つ。鐘鼓(かねつつみ)を動(とどろか)す。始めて漏剋を用ゐる。此の漏剋は,天皇(すめらみこと)の皇太子(ひつぎのみこ)に為(ましま)す時に,始めて親(みづか)ら製造(つく)れる所なり〉(『日本古典文学大系』1968,岩波書店)とあるのが日本最初の水時計とされている。なお1982年(昭和57)に木樋や銅管が発見された明日香,水落遺跡は,日本最古の水時計ではないかといわれているが異論もないわけではない。ところで水時計は持ち運びが不可能であるため,ヨーロッパでは14世紀になると姿を消し,短い時間の測定に便利な砂時計が普及するようになる。しかし水時計は機械時計の原点をなしたといってよい。

【機械時計の出現】13世紀末ヨーロッパに初めて機械時計が出現した。最初につくられたのは修道院で,僧侶たちが夜間でも祈祷のための正確な時間を知ろうとしたニーズから生まれた。初期の機械時計の原理は,重錘(おもり)が落下する力を一定の間隔で規則的に落下するように脱進機で調整したものである。機械時計には出現の当初から必ず鐘がついていて,時刻を知らす仕掛けになっていた。時計のことを clock というのは,語源的にはラテン語の CLOCCA(鐘)に由来する。14世紀初めから16世紀にかけ,ヨーロッパ各地の修道院や教会に続々と機械時計が設置されるとともに,ほぼ同時に各都市の市庁舎や公共広場にも公共用時計が出現した。初期の時計の多くは1日を24時間に分けた文字板のほか,太陽と月・五大惑星の運行・教会の祝日・春分・秋分を示す暦がついていて,一種の天文時計であった。初期の時計工としてはイタリアのヤコブ=ドンディ(1293〜1359)と息子のジョバンニ=ド=ドンディ(1318〜89)が有名で,彼らの時計は天文機械時計のモデルとなった。

 機械時計の出現は機械の単なる技術革命ではなく,新しい時間文化の創出をもたらした点で画期的意味をもっていた。機械時計がもたらした最大の時間革命は不定時法から定時法への転換である。すなわち機械がつくる時間は人工の平等な時間で,季節や場所のいかんにかかわらず昼も夜も1時間の長さは一定である。これを定時法というが,それはまた真太陽時ともいって,正午に始まり次の正午に終わる1日の時間を24等分したものを1単位時間とする方法である。従来の農業を基礎とする社会では,太陽と自然のリズムに従って設定された不定時法が最も自然に適した制度であったが,機械時計の普及とともにヨーロッパ各地では急速に定時法が採用されるようになる。そして定時法の普及に伴って,単位時間労働による商品生産と近代資本主義成立の基礎条件ができあがる。

【機械時計と時間革命】公共用機械時計のつくる時間は,新興商人階級の時間として,キリスト教の神学的時間とはとくに利子をめぐって対立した。すなわちキリスト教の時間は神の創造したものであり,神の支配する時間である。時間が神のものである以上,時間を売って利子をとる行為は神を冒涜(ぼうとく)するものであるという理由で,商人・高利貸が行っていた利子取得行為は,中世ではしばしば徴利禁止法によって厳しい取り締まりの対象となった。これに対し商人にとって,時間の本質は貨幣であった。したがって商人の時間は神の支配から離れた客観的時間でなければならなかったし,それは貨幣と同じように正確に計測されねばならなかった。その意味でヨーロッパ各都市に出現した公共用機械時計は,教会の時間に挑戦する商人の時間を象徴するものであった。

 いま一つ,機械時計がもたらした時間革命で注目すべきは,労働のあり方が根本的に変化したことである。従来の自然的時間によって支配された農業社会では,職人の仕事といえば時間に縛られずに良い作品をつくるという作品中心の労働であった。しかし機械時計による近代的時間の成立とともに,仕事は時間に縛られた賃労働へ変わっていくのである。こうしてヨーロッパでは機械時計のつくる人工の時間を支配するブルジョワが,労働を支配する過程が進行した。時計をもつものが時間を支配したが,最初に時計をもつことができたのは,王侯・貴族・ブルジョワであった。とりわけ時計を所有したブルジョワがいち早く時間と労働を支配したのがイギリスであり,したがってイギリスにおいてまず近代資本主義が成立した。

【機械時計の発達】振子が応用される以前の機械時計は,精度においてあまり信用のおけるものではなく,性能のよい時計でも1日に30分の狂いはふつうであった。ところが振子の等時性の発見は,ガリレオ=ガリレイ(1564〜1642)が1581年ピサの大聖堂で頭上に揺れるランプをみて発見したといわれるが,振子を初めて時計に応用したのは,1658年オランダのクリスチャン=ホイヘンス(1629〜95)である。一方,17世紀後半は脱進機の改良が試みられた時代であって,イギリスのロバート=フック(1635〜1703)とウィリアム=クレメント(?〜1699)によってアンクル脱進機が発明された。こうして振子と新しい脱進機によって時計の精度が著しく高まるとともに,従来の時計は時針が1本ついているだけであったのが,1680年代ごろから分針がつくようになった。なお秒針がつくのは18世紀中ごろからである。

 ところで都市共同体の時間は,ウォッチの出現によって個人のものになっていく。ウォッチの出現をもたらしたのはぜんまいの発明で,最初のぜんまい駆動の時計の発明は15世紀中ごろである。しかしそれが携帯用ウォッチとして一般に使用されるようになるのは17世紀中ごろのことである。ウォッチの最大の技術革新は,ヒゲぜんまいが1675年以後導入されたことで,それによって時計の精度は著しく向上した。その発明者はロバート=フックあるいはクリスチァン=ホイヘンスともいわれている。

 18世紀における時計の画期的進歩は航海用クロノメーターの発達を抜きにしては語れない。長いあいだ船舶の大洋航海に際しての最大の課題は,船の正確な位置の測定法を発見することであった。というのは,緯度は天体の観測によって比較的正確に測定できたが,経度の測定は容易でなかったからである。したがって各国とも正確な経度測定法の発明に対し,高額の賞金を用意して奨励したが,最終的にはイギリスのジョン=ハリソン(1693〜1776)による正確な航海用計時器マリーン=クロノメーターの発明によって解決された。

 ハリソンの時計を複製したのが,ラーカム=ケンドール(1721〜95)である。キャプテン=クックはそれを用いた第2回目の航海(1772〜75)で,史上初の南半球の探検航海に成功し,ニューカレドニア島・フィジー諸島などを発見,イギリスの海上世界征覇に貢献した。

【時計工業の展開】ヨーロッパの時計工業は16世紀に始まるが,初期の中心は南ドイツのアウグスブルグおよびニュールンベルグで,フランスのブロアやパリでも時計工のギルドが結成された。しかしドイツが三十年戦争による社会的混乱のため時計工業は衰退を重ねていたなかで,急速に台頭してきたのがフランスとイギリスである。

 フランスの時計工業はルイ王朝をめぐる貴族階級の需要を基盤として発達した。したがって室内装飾用の絢爛豪華な置時計や宝石なみの装身具としてのウォッチの製造が盛んであった。時間の正確さよりファッションとしての時計に特徴があった。しかしナントの勅令の廃止(1685)によって多数のユグノー時計工を追放したため,フランスは優秀な技術者を失い,時計工業の発達に遅れをとることになる。

 これに対し市民社会の形成が順調であったイギリスでは,時間の正確さという市民の実用的ニーズに応える方向で時計工業が発達した。その過程でフック・クレメント・トーマス=トムピオン(1639〜1713)・トーマス=マッジ(1715〜94)など多数の優れた時計工を輩出し,17世紀後半にはすでに分業にもとづく協業体制でウォッチの大量生産が始まっていた。こうして18世紀イギリスの時計工業は,生産力において世界の覇権を握るにいたった。その中心はロンドンとランカシャー地方で,時計工の機械技術はとくにマンチェスター周辺の綿工業の機械化に貢献した。

 19世紀になると,時計工業の中心はイギリスからスイスに移る。スイスの時計工業はすでに16世紀後半から始まっていたが,やがてフランスから移住したユグノー時計工も加わり,18世紀末から19世紀初めにかけて急速に発展した。スイスの急成長の原因は,イギリス=ウォッチの高精度性にフランスのファッション性を付加し,両者のよいところを取り入れた新製品を開発したこと,およびジュラ山脈・峡谷地帯の貧しい農民の副業として営まれ,ウォッチの生産費低下に成功したためである。しかもウォッチへの大量の需要を生み出した当時の背景として,ウォッチの大衆化があった。すなわち生活の都市化と職場における時計管理的時間規制の強化,それへの対応として時計がもはや貴族やブルジョワのステイタス=シンボルではなく,大衆の生活必需品化する状況があったことである。とくに鉄道の発達がいっそうウォッチの大衆化を促進した。こうして19世紀なかごろスイスは世界一の時計工業国の地位を築いた。

 そのころから急速に台頭してくるのがアメリカである。アメリカ時計工業の特徴は,アメリカ式製造システムといわれる部品互換制による大量生産方式にある。この方法でクロックの大量生産に成功したのはイーライ=テリー(1772〜1853)で,ウォッチで成功したのがウォルサム時計会社の設立者とされるアーロン=L=デニソン(1812〜95)である。アメリカ社会の大衆需要に支えられ,ウォルサムにつづいて続々と新会社が設立されるとともに,アメリカの競争におされてスイス時計工業は後退を重ねた。ロバート=H=インガソルは大衆商品として長いあいだの夢であった1ドルウォッチの開発・販売に成功した。

 20世紀に入り,電気時計,音叉や水晶の振動を応用した音叉時計水晶時計の出現,また腕時計の世界的普及など,時計の世界は大きな変貌を遂げる。さらに第二次世界大戦後は IC・LSI の発達に伴い,これらを時計に応用したクォーツ(水晶発振式)電子時計が開発された。機械時計のクォーツ電子化への展開は,従来動力の役割を果たしてきたぜんまい・クロックの振子・脱進装置など基幹部分が姿を消したことで,機械時計はもはや機械時計ではなくなり,情報機器として電子製品の一部になった。その過程で電子工業発達を基盤にして急速に台頭した日本の時計工業が,1980年にはスイス・アメリカを抑えて世界一の王座についた。一方,香港が1970年代後半自由港と豊富な低賃金労働力によって,輸入部品の組立産業として発展を開始し,1980年にはウォッチとムーブメントの輸出において,日本・スイスを追い抜き世界一の輸出国となった。

【東洋への機械時計の伝来】西洋の機械時計は16世紀後半ヨーロッパ人が初めてアジアへ来航したときにもたらされた。当時の最先端技術を代表する機械時計に対し,中国と日本とでは対応の仕方が異なっていた。中国へは1583年イエズス会士によって時計がもたらされ,ついで1601年マテオ=リッチがキリスト教布教の許しを得るために皇帝に時計を献上した。その後中国では歴代皇帝の時計趣味が高じるなかで,西洋から精巧で豪華な機械時計が続々ともたらされ,18世紀中ごろ宮廷には4,000点以上のあらゆる種類の時計が満ちあふれていたといわれる。しかし,これから西洋の機械時計はただ皇帝や貴族階級の高級な玩具にとどまるか,装飾品として室内に美観を添えたにすぎず,それらは民間の時計工業の発達を促進することもなく,また中国工業化の基礎を築くこともなかった。機械時計のつくる時間も,日常生活における時間システムの変革をもたらすことなく,20世紀初めにおいてもなお人々は時間観念に乏しかった。

【日本人の機械時計への対応と和時計】日本へ最初に機械時計が伝来したのは,1551年(天正20)フランシスコ=ザビエル大内義隆に献上したときで,その後為政者へ献上された時計はいくつかあるが,現存している最古の機械時計は,1612年(慶長17)徳川家康がスペイン国王から贈られた置時計で,静岡市久能山東照宮に保存されている。日本人の西洋機械時計への対応で注目すべきは,中国とはまったく異なり,当時の日本の不定時法時刻制度に適合するように機械時計を改良するという,世界にも例のない独創的な対応の仕方である。こうして日本人がつくったユニークな時計が和時計である。和時計不定時法のための機械時計であるから,時間の正確さの点では初めから限界があった。しかしその限界内でできる限り正確な時間に近づく努力が重ねられていた。とくに二挺テンプ式和時計は,昼間の時間を刻むためのテンプともう一つ夜間用のテンプの二つのテンプがついていて,精巧なものは昼から夜への切り替えを自動的に行う仕掛けになっていた。

 和時計は一般的にいって,次のような種類があった。[1]やぐら時計 ふつうピラミッド型の木製の台の上に置かれ,重錘を動力に用いる。台の上に置かず壁や柱に掛けたものは掛時計と呼ばれる。[2]まくら時計 ぜんまいを動力とした小型の置時計。ふつう豪華な装飾が施されていたので,俗に大名時計ともいう。製作時期はやぐら時計よりやや遅れ,18世紀末から19世紀初め。[3]尺時計 重錘を動力とするが,日本人が独自に開発した時計。日本の木造家屋の柱に簡単に掛けられるように,1尺ほどの短冊型につくられている。重錘に固定された針が時刻文字盤を垂直に下降する過程で,時刻を示す仕組みになっている。その他卓上時計・卦算時計(文鎮時計)・印籠時計などさまざまな時計が工夫された。和時計は元来大名や貴族など個人用時計で,その多くは大名お抱えの時計師やかざり職人・金銀細工師によって美術工芸品として製作・管理された一方,実用的には鐘や太鼓による時報の根拠として用いられたようである。

【時の鐘】ヨーロッパ諸都市の公共用時計塔に相当するのが,日本では城下町に出現した鐘楼ないし時鐘堂である。17世紀中ごろから18世紀にかけ,日本の都市および農村にほぼ全国的規模で鐘が普及し,人々に時刻を知らせるようになる。城下町には城鐘(または太鼓),市民の時鐘,村には寺の梵鐘が時を報じていた。江戸時代の時刻制度は,不定時法のもとで1日を子,丑,寅…の十二支に分け,1単位時間は今日のほぼ2時間にあたる。鐘の数は子(午前0時)九ツ,丑(午前2時)八ツ,寅(午前4時)七ツ,卯(午前6時)六ツ,辰(午前8時)五ツ,巳(午前10時)四ツ,午(午前12時)九ツ,未(午後2時)八ツ,申(午後4時)七ツ,酉(午後6時)六ツ,戌(午後8時)五ツ,亥(午後10時)四ツ。つまり九ツから始まって四ツに終わる撞き方を繰り返す。こうした鐘によって統一された時報システムで人々が秩序ある時間生活を送っていたとすれば,江戸時代には一種の市民社会が成立していたといってよい。

 元来日本の鐘は,寺院の出現以来梵鐘として定着したが,梵鐘はその後仏事・勤行の合図と同時に時報の役目を果たしてきた。室町の戦乱時代には,多くの鐘が時間による軍隊の組織的行動の指図用具すなわち陣鐘として徴用された。陣鐘はやがて城内の鐘や太鼓による時報システムに発展し,それが江戸時代の城下町に受け継がれていく。城下町が拡大するにつれ,時報の鐘は城鐘と,城鐘から独立した市民のための“時の鐘”に分かれていく。

 城下町最初の時鐘は,1600年(慶長5)和歌山に浅野幸長が入城したとき,本町に設けた鐘楼がそれであろう。その後松坂(1605)・小倉(1606)・高松(1607)・江戸(1626)・大坂(1634)・静岡(1634)など全国各城下町にひろがっていく。現存する“時の鐘”には,埼玉県川越市および同岩槻市の“時の鐘”・兵庫県出石市の辰鼓櫓・和歌山市の時鐘堂などがある。なお江戸の時鐘でもっとも古いのは石町の鐘で,1626年城内西の丸で撞いていた鐘を日本橋石町に鐘楼を建てて移したものである。18世紀になると,江戸の膨張に伴い,時鐘も石町のほか,浅草寺・本所横川町・芝切通など九つに増加した。こうした鐘による時報には,時報の根拠としてある種の時計が用いられていた。梵鐘と連動して古くから用いられていたのが,一種の火時計である香時計(常香盤・時香炉ともいう)である。のちには和時計が用いられるようになる。

 1874年(明治6)1月1日,政府は太陰暦を廃止して太陽暦に改正したが,同時に時刻制度を不定時法から西洋の定時法に切り替えた。その結果,和時計も無用になり廃棄された。しかし和時計製作にかかわった時計師の優れた伝統技術は,明治期の工業化に際し,近代時計工業や機械工業に継承され,日本の産業発展に貢献した。

〔参考文献〕角山栄『時計の社会史』1984,中央公論社

C.M.チポラ,常石敬一訳『時計と文化』1976,みすず書房

C.クラットン・G.H.ベイリー・C.A.イルバート,大西平三訳『図説時計大鑑』1980,雄山閣

内田星美『時計工業の発達』1985,服部セイコー

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