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●十組問屋 とくみといや

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 江戸時代における大坂から江戸への私人荷送り機関。江戸は大坂屋伊兵衛が発起人となり,1694年(元禄7)荷主を十組に分け,行事をおき,組々順番に行事を出し組内を支配し,荷主が極印元となり,廻船に極印をおし,往来ごとに船足や船見を改めた。そのなかには,[1]塗物店組,[2]内店組,[3]通町組,[4]薬種店組,[5]釘店組,[6]綿店組,[7]表店組,[8]川岸組,[9]低店組,[10]酒店組があり,1730年(享保15)酒店組だけが分離している。取り扱った商品は約22種類であった。したがって同じ江戸問屋でも,この22種類以外の商品を扱うとか,あるいはこれらの商品でも大坂以外の商人と取り引きするものは十組問屋の統制外にあった。十組問屋結成の目的は,大坂−江戸間の海上交通輸送機関であった菱垣廻船を,江戸問屋資本の支配下に置くことにあった。従来菱垣廻船問屋に握られていた海揚荷処分権は,荷主問屋側へ移った。それによって菱垣廻船は完全に十組問屋のもとに置かれることとなった。そのことによって大坂−江戸間の商品流通もしだいに円滑化していった。江戸の需要確保と物価安定にも役立った。それによって幕府の利害とも一致した。十組問屋は発展し,近世中後期以降,十組問屋の力は向上し江戸の流通市場を独占する力となっている。1803年(享和3)十組に加入していない上方取引商人を十組に加入させるように幕府に訴えている。文化年間には杉本茂十郎が十組頭取となって十組の株仲間化を官許されるなど,その強化をはかるなどの試みがなされている。十組問屋の発展は,享保と宝暦から天明期にみられる。ところが樽廻船の発展は,十組問屋の力を衰えさせている。これは株仲間の代表的なものであった。安永・天明期には江戸・大坂に株仲間が160以上もあったといわれる。この株仲間が独占権の保持につとめたので1841年(天保12)株仲間解散令が出ている。それによって物価引下げの効果を狙っている。