●得宗 とくそう
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鎌倉幕府の執権を務めた北条氏一族の家督のこと。語源は,2代執権の義時がその法号を徳崇と称したのをうけ,8代執権の時宗が,家督たる自己の立場を徳崇と自称したに始まるといわれる。だが,14世紀中ごろ(南北朝時代)に成立した『梅松論』に時政・義時・泰時・時氏・経時・時頼・時宗・貞時・高時の9代を得宗とするとあるように,のちには,時政以来の家督すべてを得宗と呼んだ。もっとも,3代泰時までは,執権が終生家督をつとめ,とくに家督として区別されることもなかったが,そののちは,執権職を次代に譲った前執権などが北条氏家督の立場から幕府政治に干渉するようになり,しだいに執権と得宗との分離がすすんだ。また,そのころになると,北条氏一族のうちにも,嫡統(惣領家)とそのほかの庶家という区別が現れて来ており,得宗といえば,とくに北条氏嫡統の家督を意味するようになった。【得宗政治】鎌倉幕府の政治過程を,その政治形態の変化によって区分すると,第 I 期,幕府成立以後,頼朝の死までの頼朝専制時代(1185〜99,文治1〜正治1),第 II 期,頼朝の死後,頼家・実朝という2代の源家将軍,九条頼経・頼嗣という2代の摂家将軍を上に戴き,執権を中心として御家人層の合議政治が行われた執権政治時代(1199〜1247 宝治1),そして,第 III 期,東国の有力豪族三浦氏の滅亡後,鎌倉幕府の崩壊にいたるまでの期間,北条氏家督の得宗が政治を強力に左右した得宗政治時代(1247〜1333
元弘3)という3時期に分かれる。執権政治の特質が,1225年(嘉禄1)に創設された評定衆という,幾多御家人による合議機関の存在,および武家最初の成文法たる御成敗式目の制定に示されるのに対して,得宗政治の特質は,寄合衆と内管領の存在に示されているとみることができる。寄合衆とは,寛元・宝治の乱のころから,得宗の私邸でしばしば開かれ始めた秘密内談が,やがて整備・制度化されたもので,得宗と北条氏のうちの一部有力者,および得宗被官(御内人)らを中心に構成され,全盛期には,本来,評定衆が取り扱うべき重要政務の審議にもあたる幕府内の最高議決機関となっていったから,この寄合衆の制度化がすすむにつれて,評定衆はその機能を骨抜きにされ,幕府政治は,かつての合議制政治から得宗による専制政治の色彩を表面化するにいたるのである。この動向を実際の職能の上で支えていたのが,かの御内人のなかから台頭し,得宗家の家政機関,公文所の頭人となった内管領であり,得宗政治の末期に登場した内管領,長崎高綱(円喜)や高資のころには,寄合会議がこの内管領の主導で運営されることも多くなった。これは,寄合会議さえも,得宗の私的権力で牛耳られ,得宗政治の専制化が一段と進展したことを示すのである。また,得宗政治は,自己の実力を強化するため,外様御家人の所領や所職(地頭職や守護職)をことによせて没収し,それを得宗領に編入する方向をたどっていたので,得宗政治に反感をもつ御家人が増大し,それがやがて幕府政治の根底をゆるがすことになった。1285年(弘安8)11月におこった霜月騒動は,当時,内管領の地位にいた平頼綱を幕閣から排除するため,有力御家人の一員,安達泰盛が挙兵した政変であって,そのころの幕政政治のもつ内部矛盾を露呈した事件であった。しかも,この政変で勝利をしめたのが平頼綱方であったため,内管領の独走による得宗専制政治はいよいよ尖鋭化し,他方,得宗権力と一般御家人層との対立もますます本格化し始めることになる。このため,得宗政治の成立を,霜月騒動のおこった弘安8年時とする考え方もある。
〔参考文献〕佐藤進一「鎌倉幕府政治の専制化について」(竹内理三編『日本封建制成立の研究』所収)1955,吉川弘文館
奥富敬之『鎌倉北条氏の基礎的研究』1980,吉川弘文館
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