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●徳川氏 とくがわし

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 徳川はいうまでもなく,江戸幕府の将軍家であった。“得川”とも書くと家伝ではいっている。もともと,三河国の賀茂郡松平村の土豪であって,いわゆる清和源氏の嫡流(ちゃくりゅう)を汲んでいる由緒正しい家柄であると,後世においていったが,実はこれには疑問が多くあり,本当のところは,家康が将軍になるために神竜院梵舜に秘かに命じて,たくみに自己の家系を都合のよいように偽作させたというのがほぼ真相に近く,こんにちにおける定説ともなっている。徳川宗家のほか御三家三卿の嫡流のみが徳川を称しており,このほかはすべて松平氏を称している。以上が徳川氏のあらましである。つぎに,徳川氏に関してさらに詳しく述べることにする。徳川氏は,初め松平氏といっていた。なぜ松平といったかというと,よくあることであるが,ほかの場合と同じで,地名からこの松平氏という姓もきていて,このように呼ばれるようになったというわけである。松平氏の本拠は,代々三河国(現在の愛知県)の松平郷において勢力をふるっていた,一地方のたんなる豪族にすぎなかった。しかし一族は,だんだんと繁栄を重ねていくとともに,強固な団結を誇っていたという。信重のときにいたって,上野(こうずけ)の国,世良田(せらた)庄より来たり住んでいた世良田親氏に,娘を嫁がせて,この世良田親氏を松平家の養子に迎えて,家を継がせたのであった。清和源氏の末えいで新田義季の子孫にあたる人が,この親氏であったといわれている。家康は,しかしながら,あとから考えてみると一時の冒称であったのではないだろうか,とも思われることであるが,1586年(天正14)に,わざわざぎょうぎょうしくも,〈三位中将藤原家康〉という署名まで残しているし,これは単なる伝聞にはとどまらず,確かな実証もある。そして松平氏の系も,こんにちにおいては詳しいことはわからない点もあるが,しかし,確実なことは,松平信光のときからだんだんと繁栄を重ねていき,この地方において松平氏は根を張っていくとともに,枝も栄えるし,葉も繁るという,目ざましい松平一族の繁栄ぶりを示してきている。そして,一時は本流と支流とを合わせて数えてみると,実に18家を算するというほど,松平氏は盛んになっていった。しがしながら“好事魔多し”とでもいうように,広忠のときにいたって一族の強力な者に力づくで無理やりにその家を奪われてしまい,やむをえず,当時,非常に強盛を誇っていた名門の今川氏の勢力を頼っていって,ようやく今川氏の付庸(ふよう)としてもらうことができたのであった。

 徳川家康は,1557年(弘治3)にみこまれて,今川氏の重臣として当時威を振っていた関口義弘の娘(築山殿,つきやまどの)を初めて妻として娶った。やがて運命は急転していき,1560年(承禄3),織田信長が思いきって断行した桶狭間における日本歴史上に有名な一大奇襲作戦が見事に成功したので,さしも強盛を誇り,軍事力において他を圧していた今川義元もこの一戦に敗れて,無念の討死をとげてからやっと徳川家康は今川氏の強力な手中から脱することができたのである。そのようにして,家康は今川氏の人質の身から逃れて,やっとなつかしい故郷の三河国岡崎へと帰ることができた。帰国した後の家康は,信長と軍事同盟を結ぶことに成功し,三河を統一し遠江(とおとうみ)を合わせた。家康はこのころになってやっと勅許を得ることにより,長年もちいていた松平という姓を改めて徳川氏と称するようになっている。1570年(元亀1)に,浜松に居城を移したが,そののち,織田信長からとくに援軍を送ってくれるようにという強い要請を受けたがため.進んで徳川の強力な軍勢をかき集めて,4月に,越前国の朝倉義景の軍勢を打ち破るとともに,6月には近江国を支配していた強敵の浅井長政の大軍を姉川で激戦の末見事に打ち破って敗走させ,徳川軍の武名を再び天下に示すことができたのであった。1572年(元亀3)に,武勇を天下に誇っていた武田信玄と相対し,進んで浜松城から出撃し,信玄の大軍と三方ケ原(みかたがはら)において無謀な交戦をし,若さにまかせて武田軍に激突していったが,信玄の戦術に大敗し,やっとのことで命からがら浜松城に逃げ帰ることができた。1573年(天正元)強敵の信玄が病気で死去(一説には,鉄砲傷が死亡の原因ともいい伝えられている)すると,織田信長とともに,信長軍の鉄砲3,000挺の優れた戦術に協調しながら,信玄の子の勇将武田勝頼を,長篠城外の設楽原(したらはら)で打ち敗って敗走させ,武田軍に対して雪辱を果たすことができた。1582年(天正10)3月に,家康は信長と連合して甲州に軍を進め,武田勝頼(37歳)と激戦してこれを敗り,ついに勝頼を天目山において切腹させ,武田をついに3代にして滅ぼすことに成功した。同じ年の6月における,いわゆる本能寺の変で,明智光秀が信長(49歳)を本能寺を奇襲して討つと,家康はすかさず甲斐国を占領して,豊臣秀吉と対立関係を招来したが,やがて1586年(天正14)和睦し,同年12月,駿河城へ移り住んだ。それからのちは,秀吉にできる限り協力の実を示し,天下統一に協力を惜しまなかった。1590年(天正18)には,秀吉に協力して,家康は小田原城に立てこもって敵対し奮戦を重ねる北条氏を攻め,7月北条氏直父子を降伏させ,ついに北条氏を滅亡させた。この軍功によって秀吉から関八州を与えられた徳川家康は,関東打ち入りと唱えながら武蔵国に移住して行き,ついに江戸城に居を定めた。豊臣秀吉が死んだのちの1600年(慶長5),有名な天下分け目の関ケ原の戦いにおいて,石田・宇喜多・島津・長宗我部・小西らの西軍を打ち破って,これを敗走させ,反家康を唱えていた対抗勢力をついに一掃してしまった。1603年(慶長8)2月に,家康はついに長いあいだ待ち望んでいた征夷大将軍に補任されることに成功した。1605年(慶長10)に,将軍の職を4月16日に徳川秀忠(27歳)にゆずったのちも,家康は大御所と呼ばれていて,その勢力は少しも衰えなかった。家康は,引退後は駿府城に住んでいた。そして目の上のコブのような存在であった豊臣氏を打ち滅ぼすことにいろいろと謀略をめぐらし,難題をふっかけていたが,1614年(慶長19)8月に方広寺の鐘銘事件が,同年大坂冬の陣がおこり,家康は大坂追討を命じたが,12月に東軍(徳川方)と西軍(豊臣方)の和議が成立した。また1615年(慶長20)4月に大坂夏の陣がおこり,5月大坂城が陥落し,豊臣秀頼淀君は自殺した。このようにして家康は天下統一に成功した。しかし,15代将軍の徳川慶喜のとき,1867年(慶応3)10月14日に大政奉還を上表した。慶喜に代わって田安家達(いえさと)が宗家を継いで,徳川家達を名のり,1886年(明治1)駿河府中城主として70万石を賜封され,翌年,版籍奉還により静岡藩知事を命ぜられた。そののち,家達は華族となり,公爵を授けられた。また,のちに一家をなした慶喜も,とくにあとになって公爵となっている。前述のように,江戸時代においては本家と,家康の子義直(尾張)・頼宣(紀伊)・頼房(水戸)を祖先とする三家,吉宗の子宗武(田安)・宗尹(一橋)・家重の子重好(清水)が祖先の三卿の嫡流は徳川氏を唱え,ほかの庶流分家は旧姓の松平氏を称した。常陸と因幡の徳川氏は将軍家とは無関係である。

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