●徳川家康 とくがわいえやす
アジア 日本 AD1542 室町時代
1542〜1616(天文11〜元和2)江戸幕府の初代の将軍である。在職期間は,1603年(慶長8)から1605年(慶長10)にいたる3年に及んだ。三河国(愛知県)岡崎の城主松平広忠(ひろただ)の長男に生まれた。母は刈谷城主だった水野忠政(ただまさ)の娘で,名は於大(おだい)といった。徳川家康の幼名は竹千代と呼ばれ,通称は二郎三郎と称し,のちには蔵人といった。最初は元信,次に元康と呼ばれたが,最後に家康と改名した。なお院号は安国院といい,諡号を東照大権現(とうしょうだいごんげん)と唱えた。わずか6歳のときに,尾張国の織田信秀(のぶひで)のもとに人質となって赴き,3年ののちには今川義元の人質として駿河国へ送られ,父が死んでも帰ることを許されなかった。1557年(弘治3)今川氏の重臣,関口義弘の娘(築山殿)を妻として迎えた。1560年(永禄3)桶狭間(おけはざま)の戦いで義元が敗れて戦死してから岡崎に帰り,ようやく三河で独立し,それから義元の子の今川氏真と縁を切ることができた。1562年1月に家康は織田信長と同盟を結んだ。1563年9月から翌1564年3月まで領内でつづいて発生した一向一揆を断固として鎮圧し,その後は徳川の勢力範囲を抜け目なく拡大していくことに成功した。家康をこのときに助けた武将は,高力左近・本多作左衛門・天野三郎兵衛などであった。1568年家康と武田信玄とのあいだに,大井川を画して駿・遠分割の相談がまとまって,家康は1569年に今川氏真を掛川城に攻めて成功し,ついに遠江(とおとうみ)を占領することができた。このころ,勅許によって松平を徳川氏に改めている。1570年(元亀1)引馬に築城して移り,名を浜松と改めた(一説には,1577年,天正5のことともいう)。この年,信長に頼まれて援軍を送り,4月には越前国の朝倉義景を,6月には近江国の浅井長政を姉川で戦ってこれが撃破に成功した。1572年武田信玄が全軍をひきいて上京しようとして,まず遠江・三河・美濃に侵攻してきたので,徳川家康は織田信長の援軍とともに,強大な信玄の軍勢に積極的に戦いをいどんだが,ついに敗れ,三方ケ原(みかたがはら)から敗走し,命からがら浜松城に逃げこんだ。1573年(天正元)強敵だった武田信玄が死去すると,家康は信長とともに,信玄の子の勝頼に戦をいどんだ。1575年5月の長篠合戦(ながしのかっせん)において,武田勝頼を長篠城外の設楽原(したらはら)で大いに破り,1582年3月天目山の戦いにおいて,信長と家康の連合軍は勝頼(37歳)の軍勢を敗走せしめた。武田勝頼は切腹し,武田家は3代にして滅びた。家康はこの功績によって駿河国を自領とし,やがて甲斐と信濃を平定し,北条氏直に娘をとつがせ,1584年従三位・参議に任ぜられた。信長の死後には,秀吉と絶縁した織田信雄の求めに応じて,小牧・長久手の戦いで強敵の秀吉を打ち破ったが,1586年秀吉と和睦し,それからのちは秀吉の全国統一に積極的に協力するとともに第2子の秀康を秀吉の養子とした。1585年真田昌幸を討ち,武田信玄の軍法遺制を聞き,翌1586年秀吉の妹の朝日姫と結婚し,その母の大政所(おおまんどころ)を人質として迎え,やがて京都に赴いて秀吉に謁見し,権中納言・正三位にのぼった。この年12月に家康は駿府城へ移り住んだ。1587年,従二位大納言に進み,やがて左近衛大将を兼ね,1590年(天正18)には秀吉と相談して,家康は東海道の先鋒として,秀吉に協力して7月に北条氏直の親子を降伏させた。ここに関東に威を振るった北条氏は滅亡した。家康はこの功により,秀吉より関八州を与えられ,8月には,江戸城に入った。1590年に家康は,秀吉に従って奥州平定に功があった。1592年(文禄1)の文禄の役には,名護屋の本営に赴いて,軍事と政治両面の相談を秀吉から受け,1596年(慶長1)には内大臣・正二位にのぼり,やがて5大老の一人に進んだ。1598年8月に豊臣秀吉は63歳で死去した。家康は,秀吉の遺命にもとづいて,同じく5大老の一人であった前田利家と協力して在朝の諸将を速やかに召還した。このころ,石田三成は,朝鮮出兵に関して加藤清正や黒田長政たちの7将から憎悪されていたが,自身の身辺が危うくなると,すかさず家康のふところに身を投じた。家康はこれら7将をさとして,窮鳥と化した三成を助けた。このようにして家康は,大老や奉行などから頼まれて伏見城に移り,まだ幼少の秀頼を補佐し,前田利家と一緒になって,いろいろな政治上の重大案件を裁決していった。
1600年9月に石田三成らは,会津の上杉景勝たちと謀議を重ねた結果,挙兵に踏みきったが,これを待ちかまえていた家康は,関ケ原の戦いで,宇喜多・島津・長宗我部・石田・小西たちの西軍を,軍事力と謀略の両方を使用して打ち破った。大勝を勝ち得た徳川家康は,信賞必罰の原則にもとづいて盛んに賞罰を実行し,反対勢力の一掃に成功するとともに,天下の指導力を名実二つながら確立していった。1601年1月に,家康は初めて東海道駅伝馬の制を定めているが,翌2月には,功臣に領地を与えるため,譜代の諸将を駿河・遠江・三河・甲州・信濃の故地に封じて,これまでの千軍万馬・歴戦の労をこんせつにねぎらった。また関東諸国における検地をくわしく実行し,一方京都にいた天皇に対しては,皇室御料はもちろんのこと,皇族と公家や門跡たちの俸禄を一つ一つ定めていった。同年6月に家康は,銀座を伏見に置いて(のちに江戸へ移す)大判と小判を鋳り,金銀貨幣の改鋳を行った。このほか金銀のもとである鉱山,たとえば佐渡の金銀鉱山を幕府の所管に移したが,1601年に慶長大判・小判などをつくり,1602年には新技術を駆使した結果,佐渡や石見などにおいて,長年待望されていた金銀の大量産出に見事成功して,幕府財政の確立に貢献することが多大であった。関ケ原の戦いに際し,家康の打倒をはかって1600年石田三成に呼応して挙兵して敗れた景勝の120万石を没収し,米沢30万石を与えた。京都を監視するため,腹心の板倉勝重を京都所司代に任命した。1602年2月に家康は,東本願寺を創建し,本願寺を東西に分けた。同年,従一位。翌1603年には朝廷より右大臣に任ぜられるとともに征夷大将軍に補され,源氏長者,淳和・奨学両院別当となり,牛車兵仗(へいじょう)を許可された。同年10月,江戸幕府は,安南に通商を許可し,12月には京都において十人組の制を定めている。この年に幕府は,伊勢山田奉行を置いた。1604年2月幕府は,東海道・中山道(なかせんどう)・日光街道・甲州街道・奥州街道の五街道に,旅人の便宜をはかって一里塚を設けた。1605年4月16日家康は征夷大将軍を子の秀忠にゆずって,自分は腹心とともに駿河城に移り住んだが,これまでどおり政治上の大事な問題は,やはり全部,家康自身が裁決を行った。この年の9月ルソン国に年4隻の通商交易を許可している。宣教師らは,日本におけるキリシタン数は70万〜75万人と本国に報告した記録が残されている。1606年4月幕府は宇喜多秀家を八丈島に配流し,9月に江戸城が完成した。1614年方広寺鐘銘事件によって,強引に戦争を挑発し,この年の冬と,翌1615年(元和1)の夏という2度の大坂の陣によって豊臣氏を滅亡させることに成功するとともに,江戸幕府約300年の基礎を固めた。7月には武家諸法度・公家諸法度・諸宗諸本山法度を制定した。1616年家康は太政大臣に任命され,4月に75歳で死去した。駿府郊外の久能山に葬られたが,1617年日光山東照宮に分骨し改葬された。
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