●ドキュメンタリー
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“力道山の空手チョップ”(1954)から始まったといえる日本の TV は,1955〜57年ごろにようやく形をなしはじめる。NTV「風雪20年」,ラジオ東京「昭和の争闘史」,フジ「これが真実だ」,NHK「ここに人あり」などが生々しく生きる日本人の姿をとらえはじめたのである。NHKの「日本人と次郎長」(1957)は東京浅草の娯楽街へカメラを向け,境内で一人芝居をする芸人などを撮った。日本の新興宗教・旧軍隊・右翼・全学連・教職員など,耳目を集める現象を各社競って収録している。沢田美喜の「エリザベス・サンダース・ホーム」(1958)を記録して感動を与えたのもこの時分だ。小川賢二の「山の分校の記録」(1959)は栃木県の山村にある30人ぐらいの分校で,校長夫婦が生徒にTVをみせるために動き回り,支局の援助で1台1式を貸り受けたという報告である。ここにはすでにドキュメンタリーの原理である[1]持続 一つのものを追いつづける,[2]人間 無名の人の価値を掘りおこす,[3]不条理 不可能を可能にする人間の行動,など現代 TV の思想と今も変わらない論理が成立している。1959年には水俣の“奇病”が発見され,1960年には“安保闘争”がおこる。この間,KRT は兼高かおるの「世界飛び歩き」や NHK「アフリカ大陸を行く」など,世界への道がひろがって日本の TV の目はしたたかに国際活動をはじめるのだが,同時に国内の混乱と矛盾へもしっかりした追跡が行われるようになる。
1962年,NTV のドキュメンタリー番組「ノンフィクション劇場」で牛山純一の「老人と鷹」が放送された。一羽の鷹を一人の老人がどれほど苦労して育てるかという記録だが,雪深い山を背景に人間の愛情と執念をみせたものである。ついで池松俊雄の「癌の手術実況中継」(1963)が放映され,彼は以後13年間10本のドキュメンタリーでサリドマイド児“貴くん”の成長記録を報告している。「ドキュメント’75」と改題された週1本の番組によるものだが,最後の中学1年進学期まで綿密に被写体に食いつき,取材者とのあいだに仕事を超えた連帯をもって「君は明日を掴めるか−−貴くん4745日」を完結させていく。牛山が「ベトナム海兵大隊戦記」をつくったのは,この翌々年のことである。小田実のべ平連が東京清水谷公園で結成式をあげた年のことで,まさに世情騒然,この牛山作も政府とのあいだに確執を投げかける。ベトナム戦争報道を中心とする日本のドキュメンタリストらが猛然と活躍したころ,その TV の活気が世を蔽った時分だ。南軍の一兵卒がベトコンの肩を引っぱって歩く1カットは,賛否両論,マスコミを沸騰させはしたが,あれやこれや自発的に削りとられた。
1960年代後半はベトナム戦争報道でドキュメンタリー部門も多忙をきわめる。彼らの目は米基地沖縄にも向く。畑と基地,米軍と日本人,そして混血児にまで及ぶ。そこから多くの秀作が生まれたのは太平洋戦後20年の新しい体験を基点とするからであろう。吉岡成之の「二つの佐世保」(1968,TBS)は警備の父警察官とその息子の衝突を苦にがしく写す。同年7月,TBS は CBC の撮った最初のカラー「名もなき戦場,963高地の闘い」を放送して,米国人間の戦争矛盾を告発した。工藤敏樹は「私とホー・ティ・キュー」(NHK)で日本人とベトナム孤児の信頼のきずなを私生活の上で追っている。これらのフィルムは,かつて戦時日本のジャーナリズムが味わった〈敵の手に渡っても利用価値のない〉秀作であり,そのほかのおびただしい戦争と人間の記録のなかの一部にすぎない。
〈自由とは,一人きりで,のびのびと,誰とも似ずにまじめになれること〉という言葉をきかせたのは,米USIS(NHK)のドキュメンタリー「ブラドリーの青春」の主役黒人フットボール選手である。同じころ,角田隆が「告発された虐殺事件」(1970,NHK)を取材し,このソンミ事件にかかわった元ベトナム米兵たちの証言をとっている。しかもそれから二週間後,彼が「抗命−−ソンミ事件と現代社会」でインタビューした同じ米兵たちが,口をそろえて〈しゃべれないことになっている〉と証言を拒んでいるのである。私は当時アメリカへ行こうとした総理大臣を行かせまいとするデモ隊のなかで〈報道かえれ!〉というシュプレヒコールをきいた。耳を疑うことであった。それほど TV の記録が混乱しているということでもある。氏田宏の「そのとき私は……日航機“よど”の131人の記録」(1970,NTV)は日本最初の航空機乗っ取り事件の報道である。大声でわめき立てる取材陣と,帰って来た乗客サラリーマンの穏やかな顔が対照的であった。〈おしまいにはけっこう仲よくやっちゃって〉と苦笑いする一人の姿に,異常とは一般に事件のスケールをとらえる能力差から来るものだと思った。私化されたTVのその後の方向をみせるカットである。
50本を越す終戦記念番組を出した1970年,穂積八州雄らは「インドシナ報告,戦火と民衆」(NHK)で,老婆の腕のなかの赤児が息を引きとる瞬間をとらえている。その年の終わりに木村栄文が「苦海浄土」(RKB毎日)を出した。これは沢田秀穂の「足指のうた」(NHK)が,自分の体をみせることの恐怖を乗り越えた重身障者夫人の記録だが,この一編の感動と同じショックをもつ作品である。文学座の北林谷栄を使っているが,あくまで媒体としてである。彼女の扮したゴゼ風の女に,心を許して語る水俣病患者の話の内容に打たれる。木村は1984年に高倉健を使って「むかし男ありけり」(RKB毎日)を出している。俳優としての高倉ではなく,普通の人としての彼である。壇一雄が最後の時を過したポルトガルの漁港に彼が現れて,作家の生活の跡をたどるという作法のうちに,高倉個人の人間くさい戸惑いが出ている。俳優と人間の区別をしっかりと掴んだ演出であったし,俳優の部分をすべて削りとったがために,みごとなドキュメンタリーが構成できたものである。木村にとっても高倉にとっても,余人の及ばない作品である。
渡部清の「海峡」(1972,NHK)は混血娘ナターシャ(20歳)の両親が,敗戦動乱の樺太で〈水の流れのように愛し合った〉ことを伝える。心にしみる報告だった。その人間の状態を今日のこととしてみせるのが NHK の「停戦,その時」「停戦,その後」「停戦,一週間」(1973)である。砲声のきこえるサイゴン国道沿いを戦車・民兵・住民が右往左往するのだ。そして小田勝利と藤原亘の「サイゴン陥落と変革の30日」(TBS)になる。港から脱出しようとして集まった住民の群れに,解放旗をもった若者たちが近寄って“帰宅”をすすめる。ぞろぞろと家へ戻って行く人々をロングショットでいつまでも撮っている。1977年(昭和52)に上坪隆の「引揚港,博多湾」(RKB毎日)が出てくる。大陸の引揚孤児たちが30年ぶりに集まって,話し合い,最後に記念写真をとる。パシャッとシャッターがおりて,一瞬暗くなり,パッと出てくるのが冒頭にみせた孤児たちの記念写真なのである。まさに“開示のジャーナリズム”であった。小田昭太郎と福本俊の「ゴーさん一家のニッポン,カンボジア難民定住記」(1980,NTV)と永井陽三の「国籍を下さい,中国孤児・徐明さんの訴え」(1982,同)は,どちらの国とも私的関係のない人々をも巻き込まずにいられない情報だろう。それだけの葛藤を感じずに取材した作品と思えないからである。南勝次郎の「父と娘の祖国」三部作(1984,同)にも同じことがいえよう。一人の混血娘のなかの“二つの祖国”に異様な感銘がある。彼女が父の国をたずねて,初めて出会ったイトコと手をとり合い,なぜか知らない涙がこぼれる。そこに日中両国の歴史があり,血のつながりによる合意がある,と知った記録者の認識にに誤りがないからだろう。人間から出て人間へ,これが記録の骨子だ。