●土器 どき
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粘土に石片や砂をまぜてこね,形をつけて乾燥後,700〜850℃で焼きあげた素焼の器。原材料が柔らかい粘土のため,器形・文様などに民族的・時代的・地域的な特長が反映され,考古学・歴史学などを研究する上で重要な資料となっている。日本の縄文土器の発生は放射性炭素C14の測定法(後述)によると約1万年前と推定されている。そのほか年代順に弥生土器・須恵器(すえき)・土師器(はじき)がある。初め煮沸用具として発生し,のち,貯蔵用も生まれた。【土器の発生】人類が火を使用し始めたのは約60万年前といわれるが,土器の出現はせいぜい1万2,000〜1万年前であり,それ以前の文化を無土器文化または,先土器文化と呼んでいる。土器を初めてつくったのはだれか,地球上のどこで発生したのかは全くわからず,またどのようにして発明されたのかも推測する以外にない。かごやざるの内側に粘土を塗って焼くことから発見されたとか,たき火に近い土が焼けレンガ状になっているのをみてつくったとか,あるいは,熱く焼いた石をたまり水に投げこむことで食物を煮ていた石器時代の人々が,石を投げこみすぎて水たまりの底の粘土面まで焼いてしまい,それが器の素材として適していることを発見したなど,さまざまな意見がある。これまで,土器の発明は旧石器〜新石器時代の過渡期にあたる約1万年前といわれてきた。しかし,1947年〜52年にかけて,チェコスロバキア=モラビア地方のウェストニイチェ遺跡(後期旧石器時代のオーリニャック文化に属す)を発掘したさい,粘土製の女人像や,動物を形どった素焼の土製品が出土したことから,土器の発明もそのころ(C14測定法で約2万3,000年前)にさかのぼるのではないかとの見方もでてきている。
いずれにせよ人類が最初につくった土器は,地球上のどこであれ深鉢形の煮沸容器であった。いろりにつっこんで,まわりで火をたくのに便利な形であり,砲弾を逆さにしたような尖底深鉢,平底または円筒形深鉢など,短時間で煮沸するのによい器形へと工夫されていった。さらに食料の貯蔵用から日常の食器へと,農耕・牧畜などの発生・発達につれて土器の必要性は高まり,器形や材料に工夫がこらされていった。
【放射性炭素C14測定法】1947年アメリカ=シカゴ大学の原子科学者リビー F.Libby によって発明された年代測定法である。考古学では文献記録のない太古の遺物の年代を考えるとき,層位学や型式学の助けを借り,相対的な年代をもって決定していた。しかしこの方法をもって遺跡・遺物に絶対的年代を与えうるとして世界の注目を浴びた。大要は次のとおりである。
大気中の二酸化炭素に含まれるC12・C14の割合はつねに一定であり,生物はすべてこれを摂取している。C12・C14は生物の体内でも大気中と同様に一定の割合にあるが,死滅した場合,C14の量は年月の経過とともに規則正しく減少し,5,568±30年で半減する。この点を利用し,遺体にのこるC12・C14の割合からその生物の死んだ年代が算出できるというもの。土器と同じ層位内で発掘された貝穀や木炭片などの生物の遺体を測定することによって,土器の年代もわりだされる。しかし,この方法を過信するのは危険であり,今後なおいっそうの検討を要する。
【土器の製作方法】土器の成形には次の五つの方法がある。[1]手捏(てずくね)法;粘土を手でこねてひきのばし,皿・鉢などをつくる初歩的な方法から,次の段階として,粘土塊を直径5cmほどの球にまるめたものを,手のひらで円板状につぶし,これをいくつか重ねるようにつなぎあわせて,直径20cm,高さ10cmほどの円底浅鉢にしたもの。[2]輪積(わづみ)法;粘土の帯で輪をつくり,下から積み重ねていくもの。縄文時代早期の土器に多い。円筒形深鉢になると,帯の幅は50cmほどにもなる。[3]巻上(まきあげ)法;粘土をひも状にひねりだし,コイル状に巻きあげて壺(つぼ)形にしたもの。縄文時代晩期〜弥生時代の土器にみられる。[4]型塗法;土器の鉢などの内側に粘土をはって形をつくり,乾いてからはずして焼く,またはかごを利用してそのまま焼いたもの。[5]ろくろびき法;初めは簡単な回転台を使い,しだいに高度なろくろを用いるようになった(須恵器・土師器など)。
土器に用いる粘土は,粘着力を強めるため,半径10〜20kmに及ぶあちこちのものを混ぜた。また,ひびわれを防ぐために,小石や砂を混ぜることも早くから行われていた。そのほか,貝殻や植物繊維を混ぜたもの,うすい粘土板のあいだに植物繊維をはさんで焼いたものなどもある。
このようにして成形したものを陰干しにして乾燥させ,700〜850℃で焼きあげた。その原始的な一例を述べると,まず,深さ数十cm,直径50cmほどのすり鉢形のくぼみを掘る。中央部に土器を1個置き,周囲を薪で囲んで火をつける。土器が大型になるほど時間は長くかかり,高さ50cmのものでは3時間近くかかった。薪の灰が穴に落ち,その熱の放出がおさまって器が冷却したところをとりだしてできあがり。
なお,熱度200℃で粘土中の混合水が,600℃で結晶水が貯水され,さらに加熱すると炭素が酸化され,炭酸塩・硫酸塩が分解されて,ふつうに乾燥させただけの粘土とは異なった質のものができあがる。
この方法が進歩すると,原始的な丸窯(かま)が現れた。土を掘った上に泥で屋根をつくり,床に空気を送りこむためのまるい穴をたくさんあけたもので,土器は床に置き,周囲に薪をおいて火をつけた。
さらに進歩すると,丘陵斜面を利用した登り窯が発明された(朝鮮の新羅焼や日本の須恵器の窯など)。15度くらいのゆるい斜面に設けた窯で,丘陵を細長く掘りわって土塀の要領で天井をおおい,できあがった部屋の上端を煙だし,下端をたき口とした。酸素の供給や遮断が思うようにでき,1,000℃以上の高熱になった。
【土器の形・文様】土器の形態は甕(かめ)形・鉢形・皿形・壺形・注口土器などに分類され,さらに部分の特長により細分できる。また文様の有無によって,有文土器と無文土器に分けられる。
そもそも文様の始まりは,土器を焼くさい,輪積みのつなぎめが離れるのを防ぐため,内側に板をあて,外からたたいたものであった。工具に巻いた縄目などが,そのまま文様としてのこっている土器もある。そのほか,小さな棒や縄状によったひもを回転押印した縄文土器の文様や,条痕・擦文(さつもん)・刷毛目(はけめ)と呼ばれる平行線は,器面をなでたりかきとった工具のあとであり,成形上の必然性によるものであった。
その後,装飾的で自由なさまざまな文様が現れた。文様には沈文(ヘらなどで沈線でえがく)と浮文(ひも状の粘土帯をはりつける)の2種類があり,木片・竹の管・貝殻などが工具として使われた。さらに彩色文様(略して彩文)をつけたものもでて,短期間でさまざまな変化が現れた。
文字の全くない時代を研究するさい,最も重要なのは,土器の「型式編年」(物体の形態や製作技術を検討し,類似した一群を定め,年代順に配列すること)であり,このような土器の形・文様の変化を基準として,相対年代による編年研究の尺度とする場合が多い。また,それらによって,文化圏や交流圏を知ることができる。
【縄文土器】土器の表面に,より糸状の縄目文様が施されていることから名づけられたが,すべての土器にこの文様がついているわけではなく,また無文土器もある。低温(約500℃前後)で焼かれたため,黒褐色か茶褐色を呈し,もろい。「縄文土器」の名称は大森貝塚の発見者であるアメリカの動物学者モースE.SE.S.Morse によるもので,彼は1879年(明治12)発表の調査報告書『大森介墟(かいきょ)古物篇』のなかで,大森貝塚から発見された縄目文様の土器類に“Cord Marked Pottery”と名づけた。当時はこの語は「索紋土器」と訳されたがその語訳の難解さのためか一般に普及しなかった。その7年のち,日本の考古学者の草分けである白井光太郎によって「縄文土器」の語が使用され,やがて「紋」が「文」になって定着した。 縄文文化の時代は約1万年と長く,早期・前期・中期・後期・晩期に区分されるが,学者によっては早期の文化内容の変化から,さらに細分し,草創期を置く人もいる。
[早期;約1万2,000〜6,000年前]この縄目文様のついた土器に先だつ日本最古の土器として,細隆線文土器(さいりゅうせんもん)土器や爪形文土器が,新潟県小瀬ケ沢および室谷,長崎県福井などの洞窟遺跡や長野県諏訪湖底の曽根遺跡などで発見されている。細隆線文とは,細い粘土のひもを土器にはりつけた文様であり,爪形文は文字どおり,爪で連続して突いてつけたように施された文様である。この最古の土器の形態ははっきりしないが,おそらく深鉢形と思われ,器底は平底あるいは尖底である。これらの土器はC14測定法によると,約1万2,000〜1万年前ごろとされ,九州から東北南部へわたってのかなり広い範囲に分布している。しかし,これらの土器は日本国内で発明されたものとするより,ユーラシア大陸あたりから渡来したと考える説のほうが有力である。
いわゆる縄文土器の各称のもととなった縄目文様は,これらにつぐ段階で出現する。つまり,縄のようによったひもを土器の表面に回転させずに押しつけて施文した土器や,ひもを土器面に回転させて押しつけて施文した土器が出現したわけで,それらのなかで最古のものは井草式土器であると考えられている。関東地方南部の三浦半島周辺の限られた地域でのみ発見されている砲弾形尖底深鉢土器には,口の部分から底面にかけて,細くよったひもを,器面に回転させながら押しつけて施文した縄目文様がみられる。口唇部分が厚く,全体的なつくりも厚手であり,これは,土器を煮沸用具として使用する場合,下半部にはいつも炎があたるため,上部との熱量のちがいによって口縁からひびわれすることが多いことに気づいた人たちが,その防止策として,口唇部を環状に厚くさせたものと思われる。この井草式といわれる土器の形式はやがて,関東北部から東北地方東南部へと分布を広げ,いくらかずつ異なった特長をもつようになって,高島式・稲荷台式などと呼ばれるようになった。
これにつづく早期中葉には,日本列島全帯にわたって,回転押型文土器といわれる土器が流行した。より糸による縄文のほかに,へら状の工具を使って土器の表面の粘土が柔らかいうちに,波状・こうし目もようなどの幾何学的な沈線文様を,回転させて施文したものである。そのほか,アカガイ・サルボウなどの貝殻を使って施文したものもある。これら早期中葉の土器には東日本と西日本で大きな地域差がみられ,また,周辺地域から渡来したと思われる外来系文化の特長もみられる。
以上のような早期の土器のほとんどは煮沸用具としてつくられたもので,その器形の多くは砲弾を逆さにしたような尖底深鉢であり,高さ・口径とも30cm前後である。この時期には,直径1.5〜2mほどではあるが,竪穴住居も出現している。
[前期;約6,000〜5,000年前]この期にはいると,竪穴住居の規模も大きくなり,屋根も高くなった。いろりも屋内に設けられるようになったため,食料の煮炊きも屋内で可能になり,土器の底は安定感のある円筒形深鉢形が新しい煮炊用具として使われるようになった。さらに炎の火力の最も強い部分が,土器に広く均一にいきわたるように,下半部にふくらみをもたせる工夫もされ,また口縁部に注ぎ口や片口をつけた土器も現れた。浅鉢土器などもつくられるようになった。
[中期;約5,000〜4,000年前]この時期は依然として,狩猟・漁撈が生業の中心であったが,きわめて初歩的な農耕生活が行われていたのではないかと考える学者もいる。樽形土器なども現れ,土器の形態や文様はしだいに豊富になって,道具としての便利さをはなれ,装飾化の傾向をたどるようになった。火焔形土器(新潟県馬高遺跡出土)・渦巻文大把手付土器(長野県曽利遺跡出土)などが代表例としてあげられる。
[後期;約4,000〜3,000年前と晩期;約3,000〜2,300年前]北九州への稲の伝来はこのころと考えられ,またそれ以前に,粟・稗(ひえ)などの渡来があったとも考えられている。食物を盛るための土器や土びん形の注口土器なども出現して,土器の形はさらに豊富になり,用途もそれに伴って分化されていった。器形は鉢・壺のほか,香炉(こうろ)形・皿・高杯(たかつき)など多種にわたり,漆や赤色顔料を塗彩したものもでき,その文様は精緻をきわめている。代表例として亀ケ岡式土器(青森県西津軽郡亀ケ岡遺跡から発見された一群の土器を模式とする)があげられる。
一方,西日本各地では装飾がほとんどない土器(精製磨研土器・条痕文土器など)がつくられていた。
【弥生土器】弥生時代は紀元前2世紀〜後3世紀ごろまでの約500年間をさし,ふつう前期・中期・後期と区別する。1884年(明治17)現在東京大学の構内になっている東京都文京区本郷弥生町の向ケ岡貝塚からの土器発見にちなんでつけられた名称である。この時代の特色は,生活の中心が狩猟・漁撈から水稲耕作(農耕)に変わってきたことにあり,また,中国や朝鮮から青銅製の剣・鏡などを初め,多くの品物が輸入された。
弥生土器は高熱で焼成されるようになったため,淡褐色の明るい色を呈し,薄手でややかたい。そのほとんどが巻上法による成形で,畿内では形を整える段階で,ろくろの前身である回転台をどこよりも早くとり入れた。福岡市板付遺跡から出土した板付式土器(広く遠賀川式ともいう)と呼ばれる一群の土器は,最古の弥生土器であり,縄文終末期の夜臼(ゆうす)式と九州各地で同じ地層に共存していて縄文土器と比べさほど大きな変化はみられない。しかし,ここ北九州を起点として,農耕文化の稼動に伴い,弥生土器は,中国・四国・近畿へ,さらに東日本へと急速に波及していった。
弥生土器の特長は用途に応じて器形がはっきりと分れていることにある。ふつう,甕(かめ,煮炊用)・壺(貯蔵用)・高杯(盛付用)の3種の基本形態に分け,縄文時代にはなかった甑(こしき)も弥生時代開始と同時に出現した。甑とは食物を蒸すための容器である。底に穴をあけた甑のなかに米を入れ,熱湯のたぎった甕の上にのせて蒸しあげるもので,今日のせいろのようなものであったろう。このうち甕のような日常用具には文様があまりなく,壺は美しく装飾されている。早期には,一般に平行線文のような簡単な幾何学文様が施されていたが,回転台が普及してくると,それを利用した美しい櫛目(くしめ)文土器が西日本一帯に出現した。そのほか,凹線文・叩き目手法など畿内に始まる文様は多い。
しかし同じころ,九州では文様がなく,器面を全体的に赤く塗る風習がおこり,甕棺のような大きな土器が生産されるようになった。また,東日本では縄文土器の伝統のきわめて強い土器がつくられ,多様な地域差がみられる。やがて後期になると地方色はなくなって画一的になり,文様もほとんどみられない無文土器が多くなった。
【須恵器】かつては祝部(いわいべ)土器・朝鮮土器とも呼ばれていた硬質の土器で,土師器とともに,古墳時代以降平安末期までつくられた。その源流は大陸,おもに朝鮮半島に求められる。日本へは5世紀ごろ,百済か新羅から渡来した工人によって技術がもたらされ,古墳の副葬品など貢納品を主として生産を開始した。『日本書紀』の「雄略紀七年条」には,新漢陶部高貴(いまきのあやのすえつくりべのこうき)の渡来を伝える記事があり,彼らは陶部(すえつくりベ)として,初めから部民(べみん)制のなかに組みこまれていた。
土器の成形にはろくろを使い,丘陵斜面などを利用してつくった登り窯に入れて1,000℃以上の高熱で焼成した。このため,たたくと金属音を発する硬質で灰色または灰黒色の土器ができあがった。器種には杯(つき)・高杯・壺・甕・器台・ハソウ※注1※(壺に似た形の注水器)などがあり,さらに鳥・動物・人物像などで装飾したものもある。大阪平野の南部にある陶邑(すえむら)古窯址群は日本最古の須恵器生産地であり,窯址は1,000基をはるかに越えている。
6世紀以降になると,各地に窯が普及し,多くの須恵器が商品としてその地の豪族の手からさらにひろまっていった。しかし日用品としての普及は土師器に劣った。
【土師器】弥生土器の系統をうけつぐ素焼の器で,古墳時代から奈良〜平安時代まで長く使用された。『延喜式』の贄土師部(にえのはしべ)からの呼称によるもの。焼成温度は850℃前後で,黄褐色・赤褐色・褐色を呈している。成形はシュデツ※注2※・輪積・巻上法によってなされ,のち,ろくろも使用された。しかし,須恵器のような大規模な窯は用いられていない。器形は,杯・高杯・壺・甕・甑・鉢などで,初期の土師器は各地域の弥生土器に似て,全国的な共通点は少なかったが,5世紀半ば以降になると地域差はほとんどなくなり,文様もみられなくなった。土器形式による編年は南関東の資料により,五領・和泉・鬼高(おにだか)・真間(まま)・国分の各形式に設定され,一応の基準となっている。
【世界の土器】西アジアはイラク北部キルクーク市付近にある,メソポタミア最古の農耕遺跡といわれるジャルモ遺跡から紀元前6500年とみられる彩文平底浅鉢形土器が発掘されている。赤・黒・白などの顔料で文様を施すこの技法は,エジプト・ヨーロッパ・インド方面へとひろがった。中央アジアをへて中国黄河流域の彩陶文化への影響も考えられる。
1921年,周口店洞穴の発見者で,北京原人発掘の糸口をつくったスウェーデンのアンダーソンにより,中国河南省仰韶(ぎょうしょう)村から,紀元前4000年とみられる彩文土器が発掘された。ジャルモ遺跡出土器との類似点も多い。なお,甕形土器の破片には種子の押し痕ものこっていた(この文化を彩陶文化または仰韶文化と呼ぶ)。
また,黄河下流域に紀元前2000〜前1500年前後におこった黒陶文化(または龍山文化と呼ばれる)の遺跡から,漆黒色で,卵のからのように薄手の良質の研磨土器(黒陶)が発掘されている。ろくろを使用し,1,000℃以上の高熱で焼成されたもので,器形は三足土器などを含み多種に及ぶ。鬲(れき)・鼎(てい)の2種に分かれるこの三足土器は中国独得のもので,足部に水を入れ,その下で薪をたいて食料を煮炊きしたり,穀物を蒸すのに使用された。
中国には彩陶・黒陶とともに中国先史時代の三系統の一つを示す灰陶(かいとう)と呼ばれる灰色土器がある。黄土地帯のほぼ全域から出土し,器種は多彩で三足土器が多い。文様はたたき文の縄文によるものが多い。
その他,東アフリカのケニア地方にあるガンブル洞窟から約1万年前の土器破片,およびその上層部からも約8,000年前の尖底深鉢形土器発掘。東北アジアのシベリアバイカル湖周辺より約6,000年前の円底深鉢形土器発掘。また,東南アジア,ヨーロッパ,南・北アメリカ大陸の各地で,土器およびその破片が次々と発見されている。
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