●トゥール=ポワティエの戦い トゥール=ポワティエのたたかい
AD732
732年フランク=メロヴィング王国の宮宰カール=マルテルがイスラーム教徒の軍を撃退した戦い。【スペイン侵入】ムハンマドの死後,アラビア人は東地中海沿岸地域を征服,北アフリカ侵入でビザンツ領アフリカの首都カルタゴを陥れ(697),北アフリカの大西洋岸に達す。アフリカ総督ムーサーの部将ターリクは,イスラーム教徒のベルベル人・アラビア人を率いてジブラルタル海峡を渡りスペインに侵入,711年西ゴート王ロデリッヒを破り(西ゴート王国の滅亡),首都トレドを占領,つづくムーサーの征服により,ほぼスペイン全土にイスラームの支配を確立。イベリア半島から北上を企てたイスラームは,エル=サムフに率いられてピレネー山脈を越えて南フランスに侵入,720年ナルボンヌを占領,以後ここを基地としてフランク王国に脅威を与える。エル=サムフはトゥールーズを襲ったが,アキテーヌ公ウード(ユード)に敗れ(721),後続のイスラーム軍はカルカッソンヌ・ニームを攻略してのち,ローヌ川流域を侵しリヨンに進んだが,侵略を阻まれる。729年新たにスペイン総督アブド=アッラフマーン率いるイスラーム軍はアキテーヌ地方に侵入,732年夏ボルドーに進路をとり,ドルドーニュ・ガロンヌ両川の合流点付近でウードと戦って破る。ウードは敵対者カール=マルテルに援軍を求めて北に逃れる。イスラームも北上しポワティエの聖イレーヌ教会を略奪,おそらく,聖マルタン修道院の財宝を掠める目的でトゥールにむかった。同年10月アウストラシア・ブルグントの連合軍を指揮するカールとアブド=アッラフマーンは,ポワティエとトゥールのあいだ(正確な地名は確定されていない)で遭遇し,カールはイスラーム軍を破り,アブド=アッラフマーンもこの戦いで斃れる。トゥール=ポワティエの敗戦後,イスラームはリムーザン地方を劫掠,ナルボンヌに退く。カールはイスラームの残存勢力と戦い,南ガリアの軍事的安定をはかり,737年ナルボンヌの南でイスラームを破り,イスラームはラングドック地方からしだいに撤退。741〜747年に,イスラームはニーム・ナルボンヌなどに残留したが,759年ピピン(小)がナルボンヌの奪回に成功。
【諸説】トゥール=ポワティエの戦いについては,信頼できる史料は少なく,不確実な点も少なくない。たとえば,この戦いを733年とする説があったり,またこの戦いにおいてウードの演じた役割についても次のような説がある。彼はフランク王国の統一をめざすカールの北からの圧迫に対して,娘をイスラームの部将に嫁がせ,その前後にイスラーム側と手を結んだという。もしそうであれば,ウードはイスラーム側を裏切ったことになるが,娘の結婚の事実もウード=イスラームの同盟関係(726〜730)のいずれも疑わしい。あるいは,イスラームの南フランスヘの侵入の目的が略奪であったか征服であったかという問題も残るが,おそらく,短期間にスペインを征服したイスラーム勢力の北進の限界を印したものであろう。一方,フランク側からみれば,この戦いはガリア支配の死活にかかわる事件であったが,当時すでにフランク王国の実権者であったカールの勝利は,その子ピピンのクーデターによって始まるカロリング王朝に,きわめて大きな権威を与えたことになる。
〔参考文献〕フィリップ=K=ヒッティ,岩永博訳『アルブの歴史』上・下,1983,講談社
W. モンゴメリ・ワット,三木亘訳『地中海世界のイスラーム』1984,筑摩書房
平城照介「イスラームの発展と地中海世界」『岩波講座世界歴史7』1969