●銅鉾 どうほこ
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銅剣・銅鉾・銅戈(か)は青銅製の武器を代表するもので,東アジアでも独自の発展をした。銅鉾は鋭い鋒(きっさき)と脊(むね)に達する袋状の柄部とからなり,これに長い柄をさし込んで手元からくり出して相手を刺突する武器で,日本には銅剣や銅戈とともに朝鮮半島で一定の発展をとげた製品が弥生時代前期末(前2世紀ごろ)セットとして北部九州にもたらされた。【型式変遷】銅鉾の研究は,大正期末年の高橋健自博士の『銅鉾・銅剣の研究』以来,おもに型式の分類,編年を中心になされてきた。朝鮮半島で型式的に完成された銅鉾は細形銅鉾と呼ばれ,厚くて太い脊と鋭い鋒をもつ小形のものであるが,日本の弥生時代ではそれが独自の展開を示すことになる。つまり,銅鉾に限らず,細形の武器類は日本でホウセイ※注1※されて,中細形→中広形→広形型式を生むにいたる。これらは,個々の製品の認定や細部において研究者間で微妙な差異をみせてはいるが,大形・扁平化し,重量化する点では銅鐸同様の傾向を示しているといえる。銅鉾の場合はとくにこの過程が明瞭である。細形銅鉾は太く短い鋒部と飾りを結ぶための袋部の有孔耳をもち,長さも50cm以下であるが,中細形では70cmほどにもなり,さらに中広形では70cmを超える長大なものや鋒部幅が広く刃をとぎださず鏑が消えるものが一般的となり,耳は孔がなく扁平なものが多くなる。また,袋部を鋳造する際の中子(なかご)の土が入ったままの例が一般的となり,柄をさし込んで使用することが全く不可能な状態となっている。広形はさらに鋒部の扁平・大形化が顕著となり,袋部はラッパ状に開き,全長1mを超えるような製品もみられる。こうして,銅鉾に限らず,他の青銅製武器もおおむねホウセイ※注1※化とともに巨大化をたどり,武器としての実用品から非実用的な祭器へと転換していく様をみることができる。そこでこれらを青銅製武器形(矛形)祭器と呼んで,本来の細形銅鉾と機能上区別しようという考えもあるが,その変化は必ずしも単系的なものではなく,細形じたいにも舶載かホウセイ※注1※かの区別の難しいものも少なからず存在する。
【製作年代】銅鉾など青銅製武器の発見は銅鐸同様に単独ないしは複数で埋納される例が多く,製作年代はおろか埋納年代を決めることも大きな困難を伴う。しかし,細形銅鉾では墓に副葬される例が多く,福岡県板付・田端遺跡の前期末例を最古に,佐賀県宇木汲田(うきくんでん)遺跡37号甕棺(中期中ごろ),福岡県須玖・岡本D地点甕棺(中期後半)までつづく。また,中細形には福岡県立岩遺跡10号甕棺(中期後半)の副葬例などがあり,中広・広形は長崎県対馬塔の首3号石棺例から後期まで下ることが確実とされている。このような点から,日本でのホウセイ※注1※f品の副葬開始を中期後半の一点に求めることができる。また,銅鉾の鋳型は現在福岡・佐賀両県の19遺跡で知られているが,福岡県大谷遺跡の中細形および中広形の鋳型が中期後半,板付遺跡の広形の鋳型が後期初めごろと副葬年代とさしたる矛盾はない。現時点では,銅鐸をふくめた青銅器の国産化と祭器としての盛行時期は一致していると考えてよかろう。
【銅鉾祭祀】銅鉾が銅鐸文化圏に対立する銅鉾・銅剣文化圏を構成する青銅製祭器と考えられて久しい。しかし,近年では銅剣祭祀はむしろ瀬戸内地方を中心とし,銅戈の祭祀も北九州と大阪湾岸との違いが認められるようになった。この意味では,銅鉾の祭器こそ北九州でのみ製作されていたということができる。銅鉾祭器は北九州から四国西半にかけての約140カ所から出土しているが,とくに玄海灘に浮かぶ対馬と,黒潮の流れる愛媛・高知の海岸部に集中している。こうした分布は,はやくからこの銅鉾祭器を外洋航海の安全を願う祭儀に結びつける考えを生んだ。これにより銅剣の祭器は内海航海の祭儀となろうか。しかし,一方ではこれを,銅鐸が共同体・国家への災を払拭する呪具とするのと同様な広い性格づけも注目されている。愛媛県宇和町久枝の40本を超える例や10数本の集中埋納例,そして,福岡県辻田(つじばたけ)遺跡での破砕例は銅鉾祭器と銅鐸に共通の性格と終焉の歴史的背景をみることもできる。
〔参考文献〕田中琢編『鐸剣鏡』日本原始美術大系4,1977,講談社
九州歴史資料館編『青銅の武器』1980
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