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●東方問題 とうほうもんだい

ヨーロッパ ヨーロッパ AD 

 18世紀末以後,オスマン帝国の衰退に乗じて,中東・バルカン地域にイギリス・フランス・ロシア・オーストリア(ドイツ・イタリア・アメリカがのちに加わる)のヨーロッパ列強が進出し,領土および民族問題をめぐって,一連の国際紛争・国際問題が生じた。この国際紛争・国際問題をさすヨーロッパ側の呼称。

【列強の東方政策】フランスは,中東に伝統的に商業的基盤を確保していたが,18世紀後半,イギリスはインドへの道を確保するために,中東,とくにエジプトに基地を獲得しようとして進出した。また,ロシアもしだいに黒海沿岸に進出し,フランスもロシア・イギリスに対抗して,中東・バルカン地域に強い関心を示した。オーストリアも東ヨーロツパ・バルカンの支配をめざし,ドイツもまた3B政策,とくにバグダード鉄道計画をもって中東へ進出しようとし,イギリスの3C政策,ロシア・フランスの利害と対立した。要するに,列強による東方政策は相互に矛盾・対立するものであり,ここに国際紛争・国際問題が展開した。この国際紛争・国際問題には,キェチュク=カイナル条約の締結(1774),ナポレオンのエジプト侵略(1798),1821年以後のギリシア独立運動ムハンマド=アリーのシリア・アナトリア進出(1832〜40),クリミア戦争の展開(1853〜56),サン=ステファノ条約の締結とベルリン会議(1878),オーストリア=ハンガリー帝国によるボスニア・ヘルツェゴビナの併合(1908)などにもふくまれており,列強の利害は複雑に対立した。

【中東・バルカン地域の植民地化】このような国際環境のもとで,オスマン帝国においては,在地の有力者層であるアーヤーンが自立化する道を歩いた。また,被支配諸民族の独立運動も展開した。オスマン帝国は,内部から崩壊し始めたわけである。この危機を克服し,帝国内に住むキリスト教徒の保護を口実に干渉を加える列強の外圧を緩和するため,オスマン帝国ではタンジマートなどの政治改革を実施し,近代化をはかった。一方,列強は領事館を通してキリスト教徒を買弁商人として利用し,ムスリム商人を排除する外交政策をとった。また,キリスト教徒とムスリムの宗教的・民族的対立を煽動し,これを利用しようともした。このような政策展開は,ヨーロッパ資本主義諸国による中東・バルカン地域の植民地争奪であった。そして,オスマン帝国と列強とのあいだには,1838年のイギリス−トルコ通商条約の締結など,一連の不平等条約が結ばれ,その市場が列強に開放された。また1854年〜75年のあいだに16回の借款が行われた結果,オスマン帝国の財政は完全に破綻し,オスマン債務管理局が設置されたりして,中東・バルカン地域は植民地化された。

トルコ民族国家形成の道】植民地化によって,買弁的非ムスリムは経済的利益を得たが,中東・バルカン地域の伝統的産業や社会組織は破壊された。また,イスタンブール・ベイルート・アレクサンドリアなどの港湾都市においては,ヨーロッパ商人や非ムスリム商人がムスリム大衆を経済的に搾取した。ムスリム大衆は,これを“イスラームの危機”としてとらえ,イスラーム神秘主義教団のデルウィーシュの指導により,近代イスラーム改革サラフィーヤ運動を展開し,1909年の3月31日事件などがおこった。一方,オスマン帝国の改革運動と近代ヨーロッパとの接触は,新たなムスリム=エリート層の台頭をうながし,新しいタイプの官僚・知識人・青年将校が現れた。彼らは,伝統的な官僚・軍人・イスラーム学者ウラマーとは異なり,民族主義の立場から危機克服を訴え,立憲運動や反帝国主義運動の主導権を握り,オスマン帝国を倒し,トルコ人の民族国家を形成するために活躍した。

〔参考文献〕三橋冨治男『トルコの歴史』1964,紀伊国屋新書,紀伊国屋書店

英修道・入江啓四郎監『中東・アフリカの国際関係の推移』1967,巌南堂書店

護雅夫編『トルコの社会と経済』1971,アジア経済研究所