50音順    検 索

●銅版画 どうばんが

AD 

 銅の板を凹刻して刷り出した絵をいう。古くは鉄板も用いられ,また技法によっては,鋼鉄板や亜鉛板でも行われるので,広くこれらを含める場合もあり,凹刻の凸面部分を刷るものもこの名で呼ぶことがある。しかし金属工芸品の一部(平面部分)に加工した浮彫や写真製版の製品(網目写真版)は含めず,もっぱら,画家の手技創作の版画をさす。凹刻を手工的にすすめるものと,腐蝕の薬剤を利用するものとがある。鉄筆の尖端の繊細なきずが軽く自由に描き出すドライ=ポイントだが,これを深く刷圧に耐える彫り込みにすすめるには尖刀ビュラン([仏],[英])を用い,当然おこる凹刻のふみのめくれ([仏])は金属ヘラでけずりとる。これが彫刻銅版である。また,のこぎりの歯形ののみ([英],[仏])であらかじめ無数の凹部を銅板面につくっておき,これを金属のコテやヘラでつぶしたり,けずったりして,平滑面に処理し,つまり全面きずだらけまっ暗やみから明るさの段階を出していく,みごとな手工法がメゾチントである。腐蝕剤利用のおもなものはエッチング([英],[仏],[独])である。銅板面に白蝋やアスファルトで被覆処理([英],[仏])した面に鉄筆で絵をかく。当然にやわらかな蝋質はとれて,銅の地はだがのぞく状態になる。これを硝酸に投入し,時間差が蝕作用の進行に影響するから,注意し,よいとなったら引きあげ,被覆面を取り去って,凹部にインクを盛りこみ,拭きとり,円圧機にかけて刷りあげる。手工法の例でも同じだが,このインクの盛りこみと(不用な凸部分の)ふきとりによって凹版の絵の構造が完了する。これにやや大きめの紙をあてて刷りあげれば版面は紙にくいこみ,つまり,画面のインク部分はわずかな突起をみせ,また版のふちのくいこみははっきり画面の境界を示す。油脂分のつよい軟質の防蝕被覆を用い,そのためにクレヨン調の出るのをよろこぶのがソフト=グランド=エッチングである。またなんとなく水彩画の感じで,エッチングと違う面腐蝕が,ラテン語の水に語源をとった技法アクアチントもある。樹脂やアスファルト粉末の防蝕性を利用し,それを銅板画に散布し固着させて腐蝕液に入れ,その時間差でみごとな調子の段階を構成する。18世紀フランスでクレヨン風版画と賞美された点刻版がある。点の集合は線だ,面だ,では幾何学のようだが,点のかたまりで形をつくる凹版で,腐蝕法を用いるが,部分的には,エッチング鉄筆ビュランもまた回転ヤスリも混用して,みてやわらかいふんわりした感じを出す凹版である。これらは単独にすすめられるだけでなく,混用されることが多い。たとえば,エッチング凹線刻に部分的にアクアチントをかけるとか,点刻の素地にメゾチント式の金属コテによる調子表現をするなどの場合で,これらの技法の複合をみとめて,ただ凹版画と呼ぶこともある。

【歴史】ビュラン尖刀の祖形は,日本ではタガネ(鑚・鏨)と呼んで,鋼鉄製の金属工芸用具である。西洋では古代エジプト時代からみられ,中世ヨーロッパの金属工匠たちは,これを用いて教会用品や武具に装飾文様を彫りつけ,その凹部に亜鉛そのほかを混和して黒色の粉末を盛り,熱着させる黒色象嵌を盛んに行っていた。仕事の進行をみるために,金属粉末に代えて墨の水液を凹線に流しこむのも彼らの慣例であったが,あるときこの上に紙を置いて,たまたま凹部の墨汁が紙面に移ってしまい,銅の凹版画-銅版画の歴史のあけぼのは生まれた,と伝えられている。その人は15世紀フィレンツェの金工フィニゲラ(1476〜64ごろ)とされているが,名はきめられないにしても,このころに生まれた金工の習俗である。すでに紙(手漉紙)はヨーロッパ全域にあり,木版の刷りとりはこの15世紀半ばよりさかのぼる14世紀末に始まっている。15〜16世紀ドイツはヨーロッパ銅産出の中心だったことも一役もつ。イタリアとほぼ同じ15世紀前半にドイツの金工の工房からも生まれた凹版画だが,ドライ=ポイントで下絵づけし,ビュランで緻密に彫りあげてのちに,下絵は金属コテで抹消する。金工の工房は製品の控えや図柄の見本用に凹版の刷りものをつくり出したのであり,早い作例には花・鳥・カルタなどの図があり,人物や動物をまじえて頭文字を組み立て,また単独に WTA とか FVB とか ES とかして,それだけでどこの工房の製品かわかる印を一隅に添えた絵が,イタリア・ドイツ・スイス・フランドル地方に知られている。銅素材のビュラン凹刻は確定し,金工出身の優れたドイツ画家ションガウアー・フィレンツェ画家マンテーニャによって銅版画はルネサンスを呼吸し,ついにデュラーの多数の連作によって,版の絵としてのゆるぎない位置を占めることになった。たとえば×の繰り返しを木版の凸刻でつくるにはたいへんな手数であるが,凹刻であれば/と\の2工程ですむ。絵画の調子・量感・質感にすすむルネサンス世界にあって,銅凹版画は刻々と多数の作家群を出現させていく。デュラーの時代に,その門下の小形絵の作家でkleinemeisterといわれる人たち,またフランドルにルカス=ファン=ライデン(1494〜1533),イタリアにライモンディ(1480ごろ〜1534ごろ),フランスにジャン=デュベ(1485ごろ〜1570ごろ)らの優れたビュラン家が知られる。この耐刷性堅牢な技術の広がりは各地に職匠組合を成立させ,別の画家の画面を受けて版の絵に組みかえて出刊する動きもしだいに盛んとなる。したがって,凸の活字版と別工程の凹版ゆえに15世紀後半以来の初期活刷本に参加がおくれていた書物装画や挿絵も,別刷や貼込などに解決の道をみつけて,16世紀以来(初出例は1481年フィレンツェ刊本)銅版画入本の時代となる。イスラム化学の成果が金属工芸に応用され,腐蝕剤による凹刻が行われるのは中世以来だが,これがドイツのポッパー(1470〜1536)やスイスのグラーフ(1485ごろ〜1529)の16世紀初め試みによってエッチング法銅版画の始まりとなる。そしてつづく17世紀に巨匠レンブラントを含む多数の作家群の活動が展開され,オランダ語の腐蝕また腐蝕凹版 ets を語源とする英語etching が世界的に知れわたることになる。この前後にフランスにカロ,また凹版技術を初めて解説出刊し,のち18世紀後期にディドロらの『百科全書』の1項として,世界的な評価を得るボス(1602〜76),風景のクロード=ロラン,肖像版画の形式をきめるナントイユ(1623〜78)ら多数の制作を忘れられない。18世紀イタリアにはカナレットピラネジ(1707〜78)が現れ,イギリスはホラー(1609〜77)につづいてホガースの多作を迎える。しかしルネサンス期の地理上の発見は,このころ以来すすむ光学器具の発展と結ばれて,17世紀から次の世紀にかけて珍奇な異国風景を覗き眼鏡でみてよろこぶ風習をフランスを初めヨーロッパ各地にひろがった。この無名の人のエッチング着彩による眼鏡絵は,銅版民衆版画の著しい例であった。

 エッチングが盛行するアムステルダムにドイツ人ジーゲン(1609〜76)が1642年に案出したメゾチント法が初めに伝えられたが,イギリスで大流行する。18世紀中期にはフランスでアクアチント法,イギリスで点刻法と新技術が現れ,ビュランエッチングの長い技術の歩みとともに,もっぱら絵画の複製にすすみつつ19世紀を迎える。この間オリジナルなエッチングアクアチント複合効果で版の絵を強く発言したのはゴヤであるが,19世紀にはフランス印象派の展開とともにマネの銅版創作が新たな脚光を受けて今日にいたっている。

【日本】イエズス会の画僧ニコラオ(1560〜1632ごろ)に学ぶ日本人初めての西欧画とビュラン技術は,1591年(天正19)刊のキリシタン活版本の扉絵を飾り,1597年(慶長2)の1枚絵聖母子像を生み出しながら,鎖国期の断絶をすごし,蘭学の興隆ととにも,ディドロ百科辞典のオランダ訳,ショメール百科に学んで,新たなエッチング法として,1783年(大明3)司馬江漢によって産声をあげる。江漢が初作隅田川図のモデルにしたのが,当時盛んに渡来した眼鏡絵だったように,彼につづく亜欧堂田善・安田雷州,京阪地の松本保居らの例も同様で,幕末には多数の銅版家を出して明治に入る。大蔵省紙幣寮(のちの印刷局)に就任したイタリア銅版家キヨソネによって紙幣印刷の基本,ビュラン彫やメゾチントが本格的に伝わり,民間銅版業者の独自な工夫から軟腐蝕版アクアチントも記録され,明治後半期に石井柏亭森田恒友の自画エッチング創作版画が現れ,この時期もっぱら創作木版家であった長谷川潔は大正初め渡仏以来始めた銅版,とくにメゾチントでロッカーの扱いを自己流に思いきり,ために長い複製的伝統を創作に変えたと高い評価を受けるにいたっている。