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●塔婆 とうば

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【起源と伝播】梵語のストゥーパの音写。卒都婆略して塔婆・塔などと書く。古代インドでは伏鉢型に盛り土した墓のことであるが,仏教では釈迦や仏弟子の舎利,遺髪などを埋めた上に土を盛り,その周囲を石や煉瓦で包んだ塔のことである。紀元前後この塔を崇拝の中心とする運動がおこり,大乗仏教にまで発展した。前3世紀半ごろ阿育王が多数のストゥーパを建てたと伝えるが,わが国でも奈良時代の百万塔造顕がよく知られる。造塔には大功徳があることは無量寿経・ヒユキョウ※注1※などの諸経に説くところで,これによって造塔の隆昌をもたらした。前1世紀後半ごろ西北インド在住のギリシア人が父母の供養のために建塔した例もある(『中村元選集』第16巻,1968,春秋社)。仏教が各地に広まるとともに仏塔建立の風習は南方諸国や中央アジア・中国・朝鮮でも行われた。中国では247年に呉の孫権が建初寺を建てた時が舎利塔造建の初めとせられる。

【塔婆の種類】日本では585年(敏達14)蘇我馬子が大野丘の北に建てたのを最初とする。塔婆には五重塔のような大きな建造物をも含むが相輪の部分はストゥーパの形式を残したものという。塔婆はふつう石造の宝塔・宝篋印塔・五輪塔卵塔・笠塔婆・板碑や墓地に見る石塔が知られるほか木製の角塔婆・板塔婆・経木塔婆がある。このほか塔鋺・塔鈴・籾塔など多種多様である。ここでは人々の生活と関係の深い石塔類について述べる。

死者供養と塔婆】造塔の功徳や志趣については造塔功徳経や覚鑁・頼瑜などの論述がある。死者供養もその一つである。わが国で埋葬地に卒塔婆を立てたことが確実な例は850年(嘉祥3)仁明天皇深草陵の卒塔婆に納めた陀羅尼が落ちた記事が『文徳実録』にみえる。嘉祥以前の建塔も推測されるが,その形態は明らかでない。叡山の良源(912〜985)自筆の遺告には,火葬して骨を埋葬した上に石卒塔婆を立て,そのなかに種々の真言を安置するように命じている。そしてこの石塔は〈遺第等来礼の標示〉とするとある。卒塔婆はそれ自体尊いもので〈一見卒塔婆 永離三悪道〉といわれたが,ここでそれが墓標化し死霊の依代化する可能性を暗示している。

五輪塔板碑】墓地石塔の主流は五輪塔板碑である。五輪塔は形は方・円・三角・半月・団形の組み合わせ,要素として地水火風空の五大をもって構成され,大日如来の三昧耶形といわれ,わが国独特の塔形である。現存最古の石造五輪塔は平泉釈尊院の1169年(仁安4)銘塔である。以後様式に時代的変化がみられるが今日も広く使われる。板碑は板石塔婆ともいい板状の石に山形の頭頂と二条線切込みが特長である。現存最古は埼玉県須賀広の1227年(嘉禄3)板碑である。緑泥片岩を産する関東地方に多く,関西には関東より古い年銘のものがない。現在墓地にみる角柱型石塔は板碑の頭頂が孤形になり,さらに丸味が低くなり石材の関係で側面幅が大きくなるなどの変遷をへて出現したことが全国的に実証せられ,形の上では無関係のようでも,板碑と歴史的なつながりがある。

【供養と記念】石塔は仏・菩薩を本尊として刻み,供養塔として立てたものである。板碑の志趣書にもみるように〈右志者為西善精霊往生極楽也〉とあるように,故人のために往生極楽や成仏得道を願って立てたもので,のちには〈為僧覚宥〉と略し,ついには為という字も略し戒名だけになる。そのため軍に墓標と思われ記念碑化した。逆修といわれる生前の造塔は七分全得といって被供養者の受ける得分と施主の得分の全体が享受されるので流行した。奈良元興寺極楽坊で発見された木製小型五輪塔や笹塔婆などは小さいものであるが本質的には石卒塔婆と同質のものである。造塔功徳経には巨大な塔も菴羅果(マンゴーの実)ほどの小さな塔婆も同じ功徳であると説いている。なお最終年忌にたてる梢付塔婆の例などから塔婆の起源がわが国固有の民俗に関係するとの説がある。

〔参考文献〕石田茂作『日本仏塔』1969,講談社

土井卓治『石塔の民俗』1981,岩崎美術社

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