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●東南アジア とうなんアジア

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 Southeast Asia の邦訳語として第二次世界大戦後に用いられるようになった地域名称。戦前の「南洋」,戦争中の「南方」がほぼこれに当たる。英語の Southeast Asia は1943年8月に連合軍の作戦区域として Southeast Asia Command(東南アジア司令部)を設置したのが正式名称の最初で,その範囲は現在のビルマ・タイ・ラオス・カンボジア・ヴェトナム・マレーシア・シンガポール・インドネシア・ブルネイ・フィリピンの諸国を含むものとされているが,インドネシア領の西イリアン(ニューギニア島西半部)はふつう除外する。東南アジアの総面積は456万平方km,1982年の調査で人口約3億6,200万が住み,面積・人口ともに大陸部と島嶼部(含マレー半島)にほぼ二分される。

【風土】ユーラシア大陸の南東部の高い山地から扇状に広がるインドシナ半島は,北から南に伸びるいくつかの山脈のあいだに急峻な谷とそこを流れる河とを発達させた。このような山脈はさらに南につらなってマレー半島の背骨を形成し,さらに大小2万余の群島と化している。洪積世の時代には海面が現在より低かったので,島嶼部の多くはスンダ陸棚と呼ばれるひとつづきの陸地をなしていた。赤道直下から温帯に分布し,かつ太平洋とインド洋のあいだに位置するために,気候は温暖・湿潤で,島嶼部の低地では年中スコールのある熱帯多雨型,北緯10度以北では雨期と乾期のあるモンスーン型,北緯20度以北のやや冷涼な山地部,さらに大陸部河口のデルタ地帯と島嶼部高山帯の5種類に分かれる。デルタはあとから泥が沈澱してできた土地であり,木が乏しく水田耕作などが行われる。高山帯には1,000mから3,000mを越える所すらあり,気候は冷涼である。

【民族と言語】東南アジアはアフリカとならんで人類発生に深いかかわりをもっている。1891年にジャワ東部で発見された原人(ホモ=エレクトゥス)は現生人類の真の祖型と考えられている。東南アジアの住民の大部分はモンゴロイドの南方群に属するが,それより以前には非モンゴロイド人種群が広く分布していたと思われる。東南アジア最古の原住民で現存するのは,暗褐色の皮膚をもち,男性の平均身長が150cm以下のネグリートで,フィリピン・マレー半島などの山間地・アンダマン諸島に住む。新石器時代以後に東南アジア大陸部から押し出されて島嶼部に移住するのがオーストロネシア語族(南島語族・マライ=ポリネシア語族ともいう)で,現在の島嶼部の大半の住民がこれに属するだけでなく,インドシナ半島東岸に住むチャム族も含まれる。他方,大陸部の民族構成は複雑で,オーストロアジア系・タイ系・チベット=ビルマ系などに分類される。このなかでオーストロアジア系に含まれる主要言語はモン=クメール諸語であり,ヴェトナム語・クメール語,および中部タイや下ビルマで用いられたモン語などがこれに属する。次にタイ系諸言語は相互間の差が少なく,タイ語族のタイへの移住が比較的新しいことを示している。最後にチベット=ビルマ語族はこれより古く,この中で主要なものはビルマの主要部分で話されているビルマ語であるが,そのほかにも北はチベット・ヒマラヤ方面からビルマ・アッサム方面にかけて,多くの語群に分かれている。これら東南アジアの諸語族はいずれも大体において北から南にむかって河伝いに移動し,先住民族と合流したり,また彼らをさらに先へ追いやったりしたものらしく,その民族構成はきわめて複雑で,最も新しいタイ族の華南奥地からの移住は,西暦13世紀のことである。このような移動の様相については考古学資料による裏づけが困難で,現在の使用言語によって類縁関係を探るよりほかに方法がない。

【先史時代】1960年代以来,タイ東北部のバーンチェン遺跡から大量の土器が発掘され,その有刻彩文土器に前4600〜前3600年もの古い時期のものがあるという推定が熱ルミネセンス法で算出されて,学界を驚かせた。しかし,その後の調査では前2〜前1世紀ぐらいと考えるのが妥当らしいという形勢になっている。そうすれば東南アジアの先史文化を周囲の諸文化より古いとする説は成り立たないことになり,むしろ従来通り,比較的新しいものと考えるべきであろう。東南アジアの青銅器文化を代表するのはドンソン文化でヴェトナム北部のドンソン遺跡出土品で知られるようになったためにこの名がある。この青銅器文化の始まりは大体前4〜前3世紀ごろと考えられ,最も特徴的な遺物は銅鼓と呼ばれる青銅製のドラムで,これは東南アジアの大陸部のみならず,マレー半島・スマトラ・ジャワ・小スンダ列島などの方々から発見されている。また中国南部の雲南省からも発見され,中国の青銅器時代との深いかかわりも考えられる。

【大陸部の国家形成】東南アジアのヨーロッパ人来航以前の歴史を知る上で,中国の史書は不可欠である。前203年に中国人の趙陀という者が広州付近を中心に南越王国を建て,ヴェトナム北部までを勢力下に置いたことが『史記』南越伝に記されている。ヴェトナム北部は前111年に漢の武帝の侵略を受け,以後約1,000年間,中国の支配下に置かれる。これに反してヴェトナム以外の東南アジア諸国はインド文化の影響を深く受けるようになり,国王を神聖視するインドの国家理念にもとづいて後1世紀末ごろ,ヴェトナム南部には扶南国が,ついで中部には林邑国が建設された。扶南はクメール語で「山」を意味するプノムの音写だとするのが通説で,古代人の山への信仰を示すものとされる。また林邑は漢王朝の置いた日南郡最南端の象林県からおこったものでもと象林邑としたのが縮まったものといわれ,チャム族の建てた国,すなわちチャンパーをさす。両国とも海上交通に大いに活躍したが,扶南は6世紀半ばに内陸からおこった真蝋(しんろう)国に圧迫されて滅亡した。この真蝋国はクメール族の国で8世紀初めごろ北側の陸真蝋と南側の水真蝋とに分裂し,国内はしばらく混乱した。また林邑国は8世紀半ばに滅び,9世紀以後このチャム族の国は古城という名で中国の史書に現れる。同じころビルマでは3〜4世紀ごろから驃(ピュー)という国がおこった。また中国の雲南省では7世紀ごろからチベット=ビルマ族を支配者とする南詔国がおこり,徐々に南方に移動を開始した。

【島嶼部の国家形成】扶南や林邑などの建国より数世紀遅れて島嶼部でも国家形成が始まった。カリマンタン島東岸のクテイで発見されたサンスクリット碑文によれば5世紀にはこの地に世襲の王がいたことがわかり,また同じころジャワ西部のスンダ地方にタルマ国があったことが知られている。しかし,画期的なのは7世紀後半にスマトラ南東部のパレンバンを中心として急速に勃興したシュリーヴィジャヤであろう。この国は海上交通の要衝に位置し,仏教が盛んで,インドに留学した唐代の僧義浄はその行き帰りに合計8年ここに滞在して仏典の翻訳にはげんでいる。ほかの多くの国ぐにと同様,この国も中国と朝貢関係を結び,スマトラ北部原産の樹脂や香薬の類を中国の唐王朝に献上した。中国の史料に室利仏逝・室利仏誓などと記されるこの国は,やがてマラッカ海峡の両岸に勢力をもつ一大海上帝国に発展し,東西交通史に重要な役割を演じた。中国の宋代になるとこの国名は〈三仏斉〉と記されるようになる。同じころ中部ジャワには中国の史書に訶陵と記される国があった。この国を支配していたのはシャイレーンドラ王朝であり,大乗仏教を信奉してボロブドゥールの石造建築を8世紀後半〜9世紀前半ごろに建設した。この建築物は9層の階段状ピラミッドで,基壇から第6層までは複雑な凹凸のある正方形,その上は円壇となり,正方形,その上は円壇となり,正方形の廻廊部分にはブッダにまつわる説話の浮彫りが,また円壇部分には釣鐘形の容器72個のなかに仏像が1体ずつ収められている。この王朝は一時インドシナ半島まで勢力を伸ばしたがやがて衰え,代わってヒンドゥー教のシヴァ信仰をもつサンジャヤ王の子孫が実権を握り,9世紀後半〜10世紀初頭にかけて中部ジャワのプランバナン建築群をつくっている。

【巨大な王国の完成】10世紀初め〜13世紀末の東南アジアは古代諸王国の完成と次の時代への過渡期を含む点で重要である。まずジャワでは908年に王都が中部から東部のクディリに移動し,1222年ごろまでクディリ王国として栄える。この国はシュリーヴィジャヤと何度か戦い,1016年には王都を占領され,王も殺されるが王族の一人アイルランガは再統一に成功し,黄金時代を現出した。この国は建造物よりも文学に貢献しインドの叙事詩を翻案した『アルジュナの結婚』などが書かれた。また人形劇ワヤンの様式もこの時代に完成した。他方,スマトラのシュリーヴィジャヤはなおも海上貿易に覇を唱えたが,インド南部のチョーラ王国と争って11世紀前半にその侵略を受け,以後国勢は衰亡にむかった。東南アジア大陸部ではヴェトナムの中国からの独立が重要である。938年にヴェトナム人呉権は中国から侵入した軍隊を破って独立し,以後70年間に三つの王朝が興亡したが,1010年に李公薀が建てた李朝が約200年の支配を保った。しかし,以後もヴェトナムは依然中国文化圏にあり,漢字・儒教・大乗仏教・律令体制などを取り入れた。李朝時代以後ヴェトナムは南進政策をとるようになった。当時カンボジアでは久しいあいだ分裂状態の真蝋が802年ジャヤヴァルマン2世(在位802〜834)により再統一されて,クメール族は13世紀にいたるアンコール期の繁栄を迎えた。その建築物のなかで最も有名なのは12世紀前半に建設されたアンコール=ワットで,縦横1km余の長方形のプランは3層に分かれ,中心には五つの塔がある。ついで12世紀から13世紀への変わり目ごろ,アンコール=トムのなかのバイヨンが完成した。なかでも巨大な人面を四方にもつ51基の塔は独特の雰囲気をつくり出している。このようなクメール族の再興とヴェトナム族の南進を受けて,インドシナ半島東岸のチャンパーはしだいに圧迫され,ついに17世紀末には滅亡するのである。またビルマでは832年に南詔の攻撃により衰えたピュー国に代わって1044年にアノーヤター王(在位1044〜77)がパガン朝を建てた。このビルマ族の王は1057年にビルマ南部のモン族の首都タトンを攻略し,その僧侶・大臣・職人などを大量に連れ帰り,その法制を学んだだけでなく,モン文字を基礎としてビルマ文字をつくった。またモン族を介してスリランカとも交渉が開け,12世紀末には上座部仏教がビルマに伝えられ,のちにビルマとタイでこの宗派が栄える下地をつくった。パガン王都の建造物は中部ジャワ・カンボジアとともに東南アジアの3大偉業ということができる。

【侵略と布教の時代】しかし,東南アジアの王国の規模は当時アジアの内陸部におこりつつあったモンゴル族の世界帝国にくらべれば,物の数ではなかった。モンゴル族は1260年に華北を征服して元朝を建て,1276年に南宋を滅ぼしてさらに東南アジア征服を企てた。中国に隣接するヴェトナムは1257年に元の侵略を受け,1282年にはその南のチャムパーも征服された。しかしヴェトナム陳朝の聖宗(在位1258〜78,死去1290)は抵抗をつづけ,1287年に元軍を撃退した。同じころ元軍は雲南地方を西に進み,1253年にタイ族の大埋国を破り,1283年にはビルマに侵入してパガン朝を滅亡させた。以後ビルマは200年にわたって混乱に陥る。他方タイ族はこの動乱に応じて北方から現在のタイ地方に進出し,スコータイ朝ラーマカムヘン王(在位1275ごろ〜17?)は元朝に協力して国力を増進し,モン文字を改良してタイ文字をつくった。しかし,1350年にやや南方のアユタヤにおこった王国はスコータイを破ってタイの主要部を制圧した。元の皇帝フビライはジャワのシンガサーリ王国にも遣使して服従をすすめたが聞かれなかったので,1292年に1,000隻の水軍をジャワに派遣した。この時シンガサーリ王はすでに暗殺され,国内は分裂していた。シンガサーリ最後の王の女婿ヴィジャヤは元軍を利用して反乱軍を鎮定し,1293年マジャパヒト王国を建てて初代の王となった。この国はジャワ最後の非イスラーム王国として大いに栄え,第4代のハヤム=ウルク王(本名ラージャサナガラ,在位1350〜1389)は名宰相ガジャ=マダに補佐されて最盛期を迎えた。当時の年代記ナーガラクルターガマ』によれば,王国はジャワの大半とバリその他の数島を支配し,東南アジア島嶼部のほぼ全部の王たちと同盟関係にあった。すでに13世紀末ごろからスマトラ北岸のイスラーム化が始まり,15世紀初頭にはスマトラから移住した王子パラメースワラは,マレー半島西岸の良港マラッカに都を定め,のちにイスラームに改宗して諸国の商人を誘致した。インド産の綿布・モルッカ諸島の香料などの集散地として,マラッカは当時の世界有数の港に発展した。イスラーム教はジャワ島北岸にも伝わり,イスラームに改宗した小国群は16世紀初にマジャパヒトを滅亡させた。このような東南アジアの変容に応じて,中国の明朝は今までの民間貿易を制限して招撫外交の復活を企て,成祖永楽帝(在位1402〜24)はイスラーム教徒の宦官,鄭和を指揮官とする大艦隊を東南アジア・インド洋沿岸に派遣した。8回に及ぶ遠征はときにアフリカ東岸や紅海に及び,同行した馬歓費信らは詳細な記録を残している。この遠征は各地に移住していた華僑を励ます効果を生じた。

【ヨーロッパ人との接触】1492年に新大陸に到達したスペインは,中南米各地に進出し,他方ポルトガルはアフリカ南端を経由して1511年にマラッカを占領した。豊富な新大陸の銀は香辛料など東南アジアの特産物の生産と取り引きを促進し,大量の移住は米の需要を増大させた。オランダ・イギリスも約1世紀遅れて東南アジアに来航し始め,ジャワその他で激しい競争を展開した。オランダは1619年にジャカルタを獲得してバタヴィアと改称し,1623年にはモルッカ諸島のアンボン島からイギリス人を一掃してインドネシア支配の基礎を置いた。当時ジャワ西部にはバンテン王国があったが17世紀後半にはオランダの属国と化し,中部の強国マタラムは一時ジャワの大半を領したが,17世紀後半以後あいつぐ内乱のたびごとにオランダにより蚕食され,ついに1755年にはスラカルタジョクジャカルタに二分されて,事実上オランダの属国と化した。ほかの東南アジア諸国にも西洋諸勢力の進出は著しく,なかでもスペインは1571年にマニラを占領し,カトリック各派の教団はまだ氏族より上位の国家を形成していないフィリピン原住民に布教して大いに効果を上げ,ミンダナオ島その他の南部イスラーム地域以外の全島民はキリスト教化された。当時東南アジア大陸部では,タイのアユタヤ朝とビルマのトゥングー朝とが16世紀半ば以後約200年にわたって戦闘を繰り返し,著しく国力を消耗した。しかし,最も衰退したのはヴェトナムとタイに挾まれたカンボジアであった。これらの諸国はしばしば日本人や西洋人の傭兵を用い,なかでもアユタヤの日本町首領山田長政は最も有名である。フランス東インド会社も他国に遅れながら17世紀後半にアユタヤ朝のナライ王(在位1657〜88)のとき,進出を試みるが,王の死により中断した。この時期の西洋諸国進出は主として局地的で,ジャワ島とフィリピンを除けば植民地化はまだ始まっていない。

【植民地支配の進展】18世紀後半にイギリスは錫貿易の利潤を求めてマレー半島に進出した。彼らは1791年にペナンを占領し,さらにオランダの植民地保護を名目として1795年にマラッカを奪い,ジャワ島さえ1811〜16年の間占領した。副総督ラッフルズは数々の近代的施策を行っただけでなく,ジャワのオランダ返還後の1819年にはシンガポールに着目し,これをイギリス植民地とした。シンガポールは無関税の自由港として急速に発展し,一方マレー半島の錫やゴムは中国人・インド人の多数を引きつけた。同じころ英領インドに隣接するビルマは,国境に出没する叛徒をめぐってイギリスの介入を受け,3度の英緬戦争(1824〜26,1852,1885〜86)の結果英領インドの一州と化した。1816年にジャワ島に復帰したオランダは,旧マタラム王族ディポヌゴロの指揮するジャワ戦争(1825〜30)や西スマトラのパドリ戦争(1820〜37)により莫大な出費を強いられ,1830年以後直轄地に強制栽培制度を実施し,コーヒー・サトウキビ・アイなどの栽培を住民に強制して利益を上げた。フランスは18世紀末以来,のちのヴェトナム阮朝(1802〜1945)の建設者阮福映嘉隆帝,在位1802〜20)を援助したためにほかの西洋諸国より優遇を受けたが,キリスト教伝導をめぐってしだいに紛争を生じ,1862年のサイゴン条約により南部のコーチシナはフランス領となった。カンボジアは1863年にフランスの保護領となり,1887年にはフランス領インドシナ連邦が成立した。このような植民地獲得競争は19世紀後半から一段と激化し,東南アジアの大部分は列強の植民地と化していったが,1782年にバンコクに都を定めたタイのチャクリ朝は,とくにモンクット王(在位1851〜68)・チュラロンコーン王(在位1868〜1910)の賢明な統治のもとに近代化を進めながら,英・仏両国の侵略を巧みにかわして,ただ一つ独立を守った。

【独立運動と太平洋戦争】東南アジアで最も早く独立戦争がおこったのはフィリピンで,ホセ=リサールらは早くから民族意識を鼓吹していた。1896年に秘密結社カティプナンがおこした武装蜂起はフィリピン全土に波及し,共和国政府がつくられた。同じころ米西戦争もおこり,アメリカは最初革命軍を援助したが,1899年初めに講和条約が締結され,スペインからフィリピン割譲を受けると,今度は共和国政府に挑戦し,1901年3月には大統領アギナルドを捕えて降伏させた。アメリカは領有中英語教育と民主主義育成を強調したが,フィリピン社会の改革には熱心でなかった。そのほかの植民地でも種々の民族運動がおこった。概して1910年代の末ごろまでヴェトナムの勤王党やインドネシアのイスラーム同盟などのように植民地化以前の世俗的または宗教的権威の回復を目ざす運動が多かったが,ロシアでの社会主義革命(1917年)成功以後は多かれ少なかれ社会主義思想に関連ある運動が多くなり,1920年にはインドネシアに,1930年にはヴェトナムに共産党がつくられた。後者はホー=チミン(1890〜1969)の指導の下に早くからフランスに抵抗する態度を示した。1940年9月に日本軍はフランス領インドシナに進駐し,1941年12月には太平洋戦争に突入した。日本は開戦後数カ月間に東南アジアのほぼ全土を占領した。今まで不敗と思われた白人の敗退は東南アジアの民衆に大きな刺激を与えたが,間もなく日本の真意が植民地解放よりは奪取であることが分かり,また食糧や人員の徴発・言論の統制などが東南アジア住民を著しく失望させた。しかし,日本の降伏後に現地に復帰した旧支配者たちは,彼らに対する原住民の態度が激変していることを思い知らされた。順調に独立を与えられたフィリピン(1946)・ビルマ(1948)の場合は別として,インドネシアは1949年,ヴェトナム・カンボジアにいたっては1975年まで旧宗主国またはその同盟国と戦い,ようやく最後の勝利をかちえたのである。

【独立後の東南アジア】東南アジア諸国のなかで,インドネシア・マレーシア・シンガポール・タイ・フィリピンの5カ国は,1967年に結成されたアセアン(東南アジア諸国連合)によって相互間の結束を固め,やや西側寄りの中立路線を取りながら大国の介入は極力排除する姿勢を採っている。他方,ヴェトナム・カンボジア・ラオスのインドシナ3国はいずれも社会主義政権であるが,相互間の結束は固いどころではなく,ヴェトナムはカンボジア領内に1978年末に進攻し,親ヴェトナム的な政府を成立させ,旧政府は奥地でゲリラ活動をつづけた。他方アセアン諸国の側でも軍部の武力を背景とした強権政治が目立ち,議会民主主義はほとんど形骸化した。フィリピンのマルコス(就任1966)・インドネシアのスハルト(就任1968)両大統領,シンガポールのリー=クアンユー首相(就任1959)はいずれも在任が長期に及び,国内の言論統制を緩和しなかった。また軍部が実権を握るタイでは1973年の学生クーデター以後政変が相次ぎ,マレーシアでは原住民優先政策に対する中国系・インド系住民の不満が時折表面化した。石油産出国インドネシア以外の諸国は熱帯農作物に多く依存する経済構造で,景気動向に左右されやすいが,近年まずシンガポールに工業化促進の気運がみられ,各国はそれに追随した。

〔参考文献〕永積昭『東南アジアの歴史』1977,講談社

大林太良編『東南アジアの民族と歴史 民族の世界史6』1984,山川出版社

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