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●同治中興 どうちちゅうこう

アジア 中華人民共和国 AD 

 太平天国鎮圧後,恭親王奕訴を中心として行われた対外協調政策や西洋文化採用によって,清朝支配体制が一時的に安定した現象を呈した。この時期が主として同治年間(1862〜74)にあたるので,この名称がおこった。イギリス・フランス連合軍の北京侵入にあたり,善後処置の責任をとった恭親王は,北京条約後しだいに清廷に重きをなした。保守派を抑えると同時に従来の外国を蛮夷視する態度を改め,外務省にあたる総理各国事務衙門を設け,北京条約で外国使節の北京駐在を認め,中国も各国に駐在官を派遣するなどして協調政策をとった。また,太平天国鎮定に功のあった曽国藩・李鴻章・左宗棠漢人官僚を登用し,そのヨーロッパの軍事技術の導入・軍需産業の振興・留学生派遣などを内容とし,清朝支配体制の回復を目的とする洋務運動を支持・推進させた。同治中興という語は当時すでに用いられていたようで,1875年(光緒1)にはチントウ※注1※編『同治中興京外奏議約編』8巻が刊行されている。

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