●銅鐸 どうたく
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銅鐸は形態上大きく分けて,鐸身と鈕(ちゅう)とからなるつり鐘状の青銅器で,青銅製の武器形祭器(剣・鉾・戈)と並んでわが国の弥生時代を代表する青銅器である。現在,350個を越える銅鐸が発見されているが,未だ発見されず地下に埋没しているもの,所蔵が周知されていないものを含めると,その数は倍以上にものぼると推定されている。【系譜】銅鐸がどのようにして出現したかは,(1)中国の編鐘(ヘんしょう)に系譜を求める説,(2)馬鐸(ばたく)に系譜を求める説,(3)朝鮮式小銅鐸に系譜を求める説,(4)自生説などがあり,近年では(3)の考えが積極的に採用されつつあるが,その影響を認めつつ新たに日本で自生したという考えもさらに検討されるべきである。
【編年】銅鐸には高さが20cmに満たないものから134cmにも及ぶ超大なものまであり,概して新しくなるほど大形化していく傾向にある。また,小形で古い銅鐸の身の内側にめぐらされた凸帯が磨滅していたり,実際に中につり下げて音を出すための舌が伴出する例があることや,大形の新しい銅鐸は装飾性が増し,視覚に訴える要素が強いことから,“聞く”銅鐸から“見る”銅鐸への転換がなされたことが推測されている。しかし,細分においては鋼鐸編年は未だ完成したわけではなく,太く小さい鈕から薄く大きい鈕へという鈕の機能的変遷に注目した菱環(りょうかん)鈕式→外縁付(がいえんつき)鈕式→扁平鈕式→突線鈕式という佐原氏編年と,主に鐸身につけられた文様を重視した三木氏編年が基本的に対峙している。
【鋳型と製作年代】銅鐸は多くが丘陵の斜面や山腹,あるいは河川や水路の傍に単独ないしは複数で埋納されることが多い。生活遺構から出土することが少なく,他の遺物を共伴しないということが,銅鐸が鋳造され,使用され埋納されるという一連の時間的経過を知る上では大きな支障となっている。銅鐸の製作開始年代には大きく2説があり,外縁付鈕式にみられる流水文と畿内第二様式土器との対応から,それより古い菱環鈕式銅鐸の初現を畿内第一様式新段階(前期末)とみる説と,他の青銅製武器の国産化との関係から中期後半に求める説とが対立している。しかし,最近になって,銅鐸の鋳型が集落跡から他の遺物を伴って出土する例が相つぎ,製作年代の大きな鍵となっている。現在のところ,鋳型は11遺跡で知られ,大阪・奈良・京都・兵庫で7例,ほかは北九州にみられる。福岡県須玖・岡本遺跡や大谷遺跡では,小銅鐸の鋳型が中期後半の土器とともに出土し,他の多くの外縁付鈕式鐸の鋳型もほぼこの時期に出土しており,現在のところ中期前半に遡る確実な資料はない。しかし,大阪府鬼虎川遺跡や京都府鶏井出(かいで)遺跡の外縁付鈕式鐸鋳型のように遡る可能性のあるものもあり,その結着は今少しの時間と検討が必要である。
【銅鐸の祭祀】北九州で相ついで出土した鋳型は今一つ重要な問題を提起した。弥生時代に北九州を中心とした銅鉾・銅剣文化圏と近畿地方を中心とした銅鐸文化圏が対立的に存在したことは古くからいわれてきたが,北九州でのこうした古い鋼鐸の鋳型の出土は少なからずこの考えを修正する必要を生んだ。しかし,いぜん銅鐸自体の発見はなく,量的な差は歴然であるから,銅鐸の系譜論が今後北九州を含めて議論されることとになっても,銅鐸が近畿を中心に発達した祭器であったことには変わりはない。銅鐸は,鐸身に描かれた動物や人々の生産の様から,また,荘厳たる音と金色の光によって農耕儀礼の祭器であるとの見解が早くに示された。最近ではさらに,共同体や集落への災難を払拭する呪器としての性格も強調されている。銅鐸“埋納”の意味も,従来いわれていた農耕儀礼までの土中保管と考えるよりも,平時は高床倉庫などに安置しておき,最後に“隠匿”“封入”“埋棄”したと考えた方がよかろう。
【鋼鐸の終焉】最近では,8例の集落跡から破砕された銅鐸の出土も相ついでいる。複数埋納の銅鐸の組み合わせをみると,古い銅鐸は中期末から後期初めごろに,新しい銅鐸も後期末にはいっせいに埋納されたり破砕されたことがわかる。神戸市桜ケ丘の14個や滋賀県小篠原の24個の銅鐸はそうした最も明瞭なあり方である。銅鐸は各地において弥生時代社会の終焉とともに姿を消した。それは,高地性集落の消長や古墳の発生という新しい権力と祭祀の醸成と表裏の関係をもつものであろう。
〔参考文献〕佐原真編『銅鐸』1979,講談社
三木文雄『銅鐸』1982,柏書房