50音順    検 索

●東大寺 とうだいじ

アジア 日本 AD 

 天平の精華として輝かしい偉容をほこる東大寺は,その金堂の本尊である盧舎那仏の造顕に始まる。聖武天皇は739年(天平11)甕原離宮に遊び,翌年には河内智識寺の盧舎那仏を拝し,ついで742年(天平14)8月11日に第1回紫香楽京に行幸あって離宮建立の計画が進められ,745年(天平15)の1月13日には例の大和国金光明寺の最勝会が盛大に行われ,ここに金光明寺は49座の大徳を招いて,77日のあいだ大会を設けて天下の模範とし,そのために梵宇威を増して皇家の安泰を祈り“像法の中興”を誓った。そして743年(天平15)10月15日ついに盧舎那大像造顕の発願の詔を発せられる。聖武天皇が“像法中興”の意欲をもって東大寺大仏の造顕を意図されたことは,奈良時代に像法思想が非常に高まって,像法千年の金字塔としてこの像を造顕することを発願されたのであろう。さらに対外的な要因として,唐高宗が672年(咸亨3)から3年間を費やして洛陽の竜門の奉先寺に,高さ85尺の2菩薩像や70尺に及ぶ盧舎那仏石像をつくったり,また則天武后が洛陽の白司馬坂に大銅仏を造顕したことなどにも影響されて,唐文化に対する日本の新しい国家意識の顕揚のためにもこの大仏がつくられなければならなかったのであろう。ついで744年(天平16)11月13日紫香楽の甲賀寺で盧舎那仏の骨柱を建てることとなって,天皇も行幸された。聖武天皇は745年(天平17)5月11日に平城京に帰られ紫香楽の甲賀寺の大仏造顕事業がこんどは大和の東山で行われた。さらに天平19年9月26日に大和金光明寺に1,000戸の食封(じきふ)を充当され,9月29日よりいよいよ本格的に大仏の鋳造に取りかかった。この鋳造は749年(天平勝宝1)10月24日まで,3カ年8度の鋳造の改良があって完成した。また大仏造顕の中心人物の1人であった行基が遷化した。ついで752年(天平勝宝4)4月9日に孝謙天皇・聖武太上天皇・光明皇太后などがそろって東大寺に行幸され大仏開眼供養に臨まれることとなった。この開眼供養式は空前の盛儀といわれた。またその間陸奥出金のことあって,天平感宝と改元,天皇は行基のもとで受戒を受け勝満と称し三宝を祈拝した。ついで同年7月24日鋳造は完了しこの年東大寺に封4,000戸,奴および婢100人を施入した。そして良弁などを中心として大仏がつくられこの盧舎那仏は教理的には maha vairocana と称され光明遍照と訳して,この仏は華厳経にもとづく報身仏で蓮華荘厳世界海を形成していると理解され,この世界は旧華厳経第2・第4および新華厳経第8の華蔵世界品の所説により,華蔵世界は昆盧遮那仏の行願によりて厳浄せられ,無量の光明をもつこの仏は万物の創造主として顕現されているといわれている。聖武天皇は756年(天平勝宝8)に没し,遺詔により光明皇后はその遺物を東大寺以下18寺に納められ,この遺物はいまも正倉院に現存している。創建当初の大仏尊像については,信貴山縁起絵巻によってある程度うかがわれる。東大寺は大仏殿(金堂)を中心とし,中門と南大門の間に東・西7重の宝塔を建立し,大仏殿の北には講堂・三面僧房(北室・東室・西室)・食堂などが甍を並べ,西には戒壇院,西北には正倉院・手掻門(現存)および東には二月堂・羂索院(現存)の伽藍が並び8町4面の寺域は国家と結合した寺院の威容を示した。奈良時代,東大寺は越前国をはじめ21カ国に封戸および荘園を持って約1,500石の見開田および畑を律令制的支配機構のなかにおいていた。855年(斉衡2)大仏の仏頭が落ち修理をした。平安時代の末期この寺の諸国の封戸が減少し,威儀師覚仁らが中心になって律令制的経済機構への依存から脱却して,荘園制的経済機構に改めた。この時代には尊勝院・東南院の両院家ができ,東南院は904年(延喜4)に成立し,尊勝院は961年(応和1)におこった。しかるに保元・平治の戦乱ののち,東大・興福二大寺院は園城寺を中心とする反平家勢力に加わったために,平重衡を将とする平家の軍勢により1180年(治承4)12月28日焼討ちされ,大仏殿をはじめ諸堂伽藍を焼失した。そののち源頼朝は南都諸寺の復興につとめ,醍醐勝賢僧正の関係で東大寺に請ぜられた俊乗坊重源は頼朝とはかり再興の事業を完成し天平の威観に復した。この時運慶快慶らの奈良仏師および宋の陳和卿らもこれに参加した。当時再建された南大門・鐘楼などは今も現存する。鎌倉時代には,伽藍の再建と同時に華厳宗の教学の復興もおこり多くの名僧を輩出した。なかでも宗性凝然らはそれぞれ華厳宗・律宗の教学を振興した。両者合わせて1,000冊の著書が現存している。平安時代より東大寺の荘園は伊賀国黒田荘,美濃国大井・茜部荘はじめ多くの荘園を所有すると同時に,鎌倉再建に際して後白河法皇より造寺国として周防国を寄せられ,重源による兵庫港修理の先蹤により,1307年(延応3)兵庫関石別升米および置石を幕府より東大寺八幡に施入され,これが平安末期よりの鎮西米(観世音寺領)とともに主要なる経済的基礎となった。しかるに南北朝期後醍醐天皇は元弘の乱において東南院聖尋を頼って潜幸したが,再び末寺笠置寺へ遷った。東大寺は室町時代末期1567年(永禄10)松永久秀三好三人衆大仏殿での籠城を滅ぼさんため攻撃し,これを炎上した。その後慶長年間(1596〜1614)より元禄年間(1688〜1703)まで大仏は露仏のままであった。東大寺は大仏殿炎上後,諸国の荘園は太閤検地とともに没落し,徳川幕府は東大寺法度を制定し3,500石の石高を決定した。江戸時代,1692年(元禄5)公慶一人の努力により1709年(宝永6)に完成した大仏殿は,東大寺にとっては3度目のもので,現存する大仏殿がこれである。これを建てるために使われた柱は60本で,堂の間敷は桁行28間6尺3寸,梁間26間4尺1寸であり,舛形は大小4,320,用材の本数2万6,183本,瓦は13万3,660枚,釘・金輪類は28万7,400本,動員された人々の数は,鳶人足11万2,134人,雑用人足8万2,091人,大工21万1,579人,木挽4万8,773人,杣工1万1,023人の多きにのぼり,合計12万1,294両1歩の巨費が投じられた。けれども堂内の四天王の多聞天と広目天を除くほかは,全身は現在に至るまで完成しないままとなっている。大仏殿の中門・廻廊は,1714年(正徳4)に再建されて現在再び修理されている。いまの大仏殿の大きさは,東西31間2尺2寸(57.030m),南北27間4尺6寸(50.484m),高さ26間4尺6寸(48.666m)である。この江戸時代再建の大仏殿は,鎌倉時代のものにならって天竺様大仏様)を用いているが,唐破風ならびに柱の捜拱斗は江戸に新しく加えられた。またその大きさは,天平および鎌倉のものの約7割1分で3分の1ほど小さくなっており,その形ももとは長方形であったが正方形に改められてしまい,やや安定感に乏しい感がある。またこの大仏殿は明治年間に大修理され,1975年(昭和50)にも修理がなされ現在に至って華厳宗一の大本山である。

〔参考文献〕平岡定海『東大寺の歴史』至文堂

平岡定海『東大寺』教育社

平岡定海『東大寺辞典』東京堂出版

平岡定海『日本寺院史の研究』吉川弘文館

01

02

03

04