●銅銭 どうせん
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中国において,青銅製貨幣(銅銭)の起源として位置づけられるのは,殷,西周の銅貨である。これは子安貝を模してつくられたものであるが,厳密な意味で貨幣といえるかどうかは疑問である。その後本格的な銅銭が出現するのは春秋時代中期である。中原の諸国では布銭が,また山東の斉国では刀銭がつくられ,流通し始めたらしい。布銭は鍬のような農具の形状を模してつくられ,刀銭は小刀の形を忠実に模したものである。布銭・刀銭はその後戦国時代には各地で大量に発行されたが,しだいに小型化・軽量化がすすみ,初期に50g以上あったものが後期には5〜6gとなった。このころ周や秦では円銭がつくられ始め,しだいに普及して戦国末期には刀銭や布銭の流通していた地域でも円銭がつくられるようになったらしい。秦の始皇帝は全国統一を完成すると,各地でばらばらだった貨幣制度を改め,円形方孔の半両銭に統一した。これが秦半両銭である。半両は1両(約23g)の半分を指し,実重量と銘文を一致させることを原則としたが,実際には大小さまざまな“半両”銭が流通し,辺境では戦国時代の貨幣が相変わらず用いられることもあったようである。しかし秦半両銭はその後の中国の銅銭のデザインを決定した点で大きな意義をもっている。秦末の戦乱によって混乱した貨幣制度は漢王朝の成立後も確立されず銘文は半両ながら重量はその3分の2の八銖半両銭,さらにその半分の四銖半両銭が発行されて,銅貨の軽量化が著しかったために,貨幣価値は下落の一途をたどった。前漢の武帝はこの状況に終止符を打つために,全国の産銅を国家の手に独占し,長安において良質の五銖銭を発行した。五銖銭は名目と重量を一致させた貨幣であり,貨幣価値をようやく安定させることができた。五銖銭は前漢末までに220億枚もの発行量を誇ったといわれ,以後南北朝末まで理想的貨幣として用いられた。漢を纂奪(さんだつ)した王莽は幣制を次々に改めて各種の円銭をつくったほか,布銭を復活し,20数種類もの貨幣を発行したが,いたずらに混乱を招くばかりであった。後漢では漢の五銖銭が再び発行されるようになったが,発行額は前漢ほど多くなかったようである。その後三国時代から南北朝にかけて,各国で断続的に五銖銭が発行されたが,貨幣流通は漢代ほど活発ではなかった。そのなかで注目されるのは,338年(漢興1)に成漢で発行された漢興銭である。これは年号を冠した銅銭の最初の例で,以後各国でしばしば年号銭が発行された。隋唐時代には,商業の発展に伴って貨幣流通が活発となり,年号に“通宝”“元宝”を加えた銅銭が盛んに発行された。とりわけ開元通宝は後代の模範とされる良貨であった(ただし“開元”は年号ではなく吉祥を表す)。しかし安史の乱以後の政治的混乱をよそに商業がますます発展し,銅銭の絶対量の不足が顕著となった。北宋ではしばしば銭荒(銅銭飢饉)がおこり,国家は対策に苦慮するに至る。その原因は商業の発展と国家の財政的需要の増大,さらに周辺諸国への銅銭の流出であった。その結果,南宋から元にかけて,財政支出や商取引に約束手形を起源とする紙幣が流通するようになった。さらに明代以降,銀の流通が活発化して財政も銀本位となり,銅銭は少額補助貨幣の地位に転落した。明・清では各省に官設の鋳銭施設が置かれ,銅銭発行を行い,偽造や変造は厳禁されていた。しかし民間では制銭(法定貨幣)にまじってさまざまな銭が流通し,清代には日本の江戸時代の銭があったと記録されている。また清末には制銭も価値が一定しなくなり,外国勢力の侵略によっていっそうの混乱に巻き込まれ,ついに咸豊年間(1851〜1861)の末には制銭発行が停止に追い込まれた。20世紀初頭には新たに銅元が発行され,制銭に代わって流通し始めたが,辛亥革命につづく軍閥割拠の政治的混乱のなかで価値が暴落して用いられなくなった。ようやく1935年(民国24)の幣制改革によって紙幣本位の近代的幣制が確立し,2000年以上にわたった秤量貨幣の時代は幕を閉じた。〔参考文献〕奥平昌洪『東亜銭志』1938
彰信威『中国貨幣史』1954