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●統帥権 とうすいけん

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 旧憲法下の用語で,旧陸海軍をす(統)べ指揮する天皇の大権を意味し,旧軍では次のような本質理解に立っていた。〈政治ハ法ニ拠リ,統帥ハ意志ニ拠ル。一般国務上ノ大権作用ハ一般ノ国民ヲ対象トシ,其生命,財産,自由ノ確保ヲ目的トシ,其行使ハ「法」ニ準拠スルヲ要スト雖,統帥権ハ「陸海軍」ト云フ特定ノ国民ヲ対象トシ,最高唯一ノ意志ニ依リテ直接ニ人間ノ自由ヲ拘束シ,且最後ノモノタル生命ヲ要求スルノミナラズ,国家非常ノ場合ニ於テハ,主権ヲ擁護確立スルモノナリ。之ヲ以テ統帥権ノ本質ハ力ニシテ其作用ハ超法的ナリ〉(陸軍大学校編「統帥参考」)

【統帥権の独立】このような理解をとった背景には,1871年(明治4)の御親兵の編成以来,“天皇の軍隊”との意識を深めてきた陸海軍が,憲法の制定によって,天皇の統帥大権と編制大権を明示した第11条及び第12条,軍人の特殊地位を定めた第32条,軍人に対する特別裁判所としての軍法会議を認めた第60条等明示の条文に接し,改めて,立憲政体下における統帥権の存在意義を明らかにする必要を認めたことが考えられるが,それは同時に統帥権独立の重要性を強調したことになる。ところでこれより先,1874年(明治7)の佐賀の乱及び同10年の陸軍参謀本部では,いずれも征討総督は太政大臣から独立し,天皇直属であり,統帥権の独立に似た法状を示した。さらに明治11年には統帥機関たる参謀本部が独立し,明治21年には“参軍”がこれに代わったが,これら憲法制定以前のものには政治的意義はほとんどなく,もっぱら事務上の便宜をはかることに目的があった。

【統帥権の内容】これに対し憲法制定後の統帥権独立のための諸施策は,議会政治の影響を局限するという政治的意義を最も重視して行われており,その主なものを挙げると次のとおりである。(1)1889年(明治22)12月,内閣官制によって,軍令に関する惟幄奏上権を陸海軍大臣にまで拡大した。(2)1893年5月,海軍軍令部が独立した。これによって,陸海軍とも軍令軍政の二元組織となった。(3)1893年5月,戦時大本営条例によって,参謀総長が陸海を通ずる帝国の参謀総長となったが,1903年12月改正され,陸海軍同列となった。(4)1898年1月,元帥府が新設され,軍事上の最高顧問となった。(5)1907年9月,軍令が制定され,すべての軍令に総理大臣の副署を排除した。これによって,統帥権独立の法形式が創造された。(6)1900年,軍部大臣現役将官制が定められ,のち一時改正が行われたが,1936年(昭和11)再び復活した。これは陸海軍大臣が軍政面だけでなく,軍令機関としての職責をももち,軍機軍令に携わるためである。

 以上のような陸海軍を中心とする統帥権の本質理解や,その独立の論理については,肯否両論があったがほとんど表面化しなかった。これに対し統帥権の範囲,すなわち憲法解釈をめぐっては,1930年(昭和5)ロンドン海軍軍縮条約の批准に関連していわゆる統帥権干犯問題が起きた。それは海軍軍令部の主張を政府が容れず,その要望額を割る兵力量で妥結した事件である。主因は軍令部が憲法12条に含まれる陸海軍の編制,常備兵額は,国防用兵上から処理する間は主として軍令機関が補佐すべきであるという解釈をとったのに対し,海軍省は第12条事項は海軍大臣のみが責任を負うとの見解をとったことにあった。その結果は,全海軍を二分する対立となり,特に青年士官を憤激させ,彼らの一部は,やがて統帥権干犯問題を惹起した。

【統帥権の影響】統帥権独立がもたらしたいま一つの悪影響は,先に述べた軍部大臣現役将官制によるものであった。すなわち軍部はこれをたてにとり,好まない内閣には大臣を出さなかったので,その内閣は瓦解を余儀なくされた。このような傾向は,次第に国務における軍の比重の過大をもたらし,国政の軍国主義偏向を招来した。以上を通覧するとき,旧軍における統帥権の独立は,天皇制下の皇軍の士気を高め,精強ならしめた功績を認めるが,それにもまして,近代日本を軍国主義化させた罪が大きかったと断じてよいであろう。