●堂島米市場 どうじまこめいちば
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江戸時代に大坂で天満の青物市場・雑喉場の魚市場とともに並称された米市場。三大市場の一つ。江戸時代の米穀の大量取引や延取引が行われたことで知られる。諸藩は“天下の台所”大坂の地に蔵屋敷を設置して領国から回送された米や国産品を換金したが,蔵屋敷ではこれら蔵物の販売事務を行った。寛文(1661〜1672)期には武士に代わって町人がそれらの事務を扱うようになり,町人蔵元といわれるものが出現した。これらのなかでは,淀屋といわれる米商人が早くから活躍していたらしいが明確ではない。一般に淀屋米市といわれるものである。米市場は大いに栄え,人々はそこに集まって米相場をたてたとみられる。このようにして盛況であった米市であるが,1705年(宝永2)に淀屋が闕(けっ)所となり,まもなく堂島の地に米市場が移転して堂島米市場が成立した。一方幕府は元禄〜正徳期には米価が高値を示していたので,これを米商人らの不実商いによるものとみて,一貫して米相場に禁令でのぞんでいた。ところが享保期(1716〜1735)になって米価が下落を示したため,米商人らによる商いを黙認するようになった。さらに幕府は“諸物価の基”として米価の動きには心を配っていたため,大坂の地にしばしば江戸の米商人らを派して,米価の安定をはかった。このようなことはしばらく続いたが,結局,大坂米商人らの願いをいれて,1730年(享保15)8月13日,大坂商人らによる自主的運営による堂島米市場の設立を認めるに至った。ここで行われたものは,帳合米取引の公認である。ところで大坂の堂島米市場は実米でなく米切手による取引であった。さきにみた諸藩の蔵屋敷で米切手が発行され,その米切手が堂島米市場で流通したものである。そこで行われた米取引は正米取引市場(正米商内)・帳合米取引市場(帳合米商内)・石建米取引市場(小商内)の三つであったが,中心は正米商内と帳合米商内であった。正米取引は100石単位で行われ米取引には“米切手”が流通した。帳合米取引は帳合つまり帳簿に記入計算されて結了する取引のことで物件代金の授受は行われなかった。取引では帳合米取引相場が正米取引相場をリードしていた。このようなしくみが考案されたため米価の平準化が行われたのである。堂島で行われる米取引は“諸物価の基”としての米価を決めるものであったから,格別に保護され取引実施中には米相場を混乱させないようにという心配りから役人すら通行が禁じられ,犯罪人が市場に逃げ込んだら逮捕できなかった。さらに堂島米市場で活躍する米商人らは一般の米商人より上位に置かれており株仲間が認められていた。また冥加金上納も免除されていた。このように保護を加えられた米市場であり,一貫して自主的な米価平準化に努めたけれども,天保期には堂島も株仲間が廃された。さらに流通の混乱がみられたため嘉永期に問屋仲間が再興されたが,幕末の物価騰貴により種々変化をみせた。〔参考文献〕須々木庄平「堂島米市場史」1940