●東西問題 とうざいもんだい
北アメリカ アメリカ合衆国 AD
ソ連を中心とした社会主義諸国(通称東側諸国)とアメリカを中心とした先進資本主義諸国(通称西側諸国)とのあいだの政治・経済・軍事・貿易などを含む国際関係の諸問題。ここでは,第二次世界大戦後のアメリカ・ソ連を軸とした東西諸国間の関係を4期に大別し,その経過と問題点を要約する。【1950年代までの東西関係】第二次世界大戦でアメリカ・ソ連は反ファシズムの統一戦線を組み,イタリア・ドイツ・日本を降伏させる大きな役割を果たした。戦後,東ヨーロッパ諸国はソ連軍の進駐と援助によって,人民民主主義政権を誕生させ,ソ連は社会主義世界の指導的立場に立った。一方,イギリスのチャーチル首相は,1946年3月「鉄のカーテン」演説によって反共連合の必要性を強調し,アメリカ大統領トルーマンは,1947年3月共産主義の危機にさらされているギリシア・トルコに経済援助を与えることを発表(トルーマン=ドクトリン)した。それは,これまでの中立外交政策を棄て,積極的な反共体制をめざしたソ連封じ込め政策の始動であり,冷戦の開始でもあった。トルーマン=ドクトリンと並行して,1947年6月マーシャル国務長官が,西ヨーロッパ諸国の経済復興と自立のための経済援助計画(マーシャル=プラン)が発表され,反共主義とアメリカに門戸を開放してヨーロッパ市場進出とを目的として活動することとなり,西ヨーロッパ諸国はこれを受け入れ,1948年4月,OEEC(ヨーロッパ経済協力機構)の条約調印の運びとなった〔1961年9月発展的解消し,OECD(経済協力開発機構)に改組された〕。また,同年2月チェコスロヴァキアの共産党がクーデタをおこし独裁政権を誕生させたことで,西ヨーロッパ諸国は同盟結成により共産主義の脅威に団結する必要を痛感し,翌月ブリュッセルでイギリス・フランス・ベネルクス3国で西欧連合(ブリュッセル)条約を締結した。1948年6月,アメリカ・イギリス・フランス・ソ連の4カ国の共同管理下に置かれていたベルリンのうち,西ベルリンで西側3国が通貨改革を行ったことから,ソ連はポツダム協定違反として非難し,ベルリン封鎖を強行し,危機は高まった。翌年5月封鎖は解除されたが,1949年9月に西ドイツ,10月には東ドイツが成立し,東西ドイツは東西両陣営に分裂した。冷戦の激化は,1949年4月東側の軍事的封じ込めをねらった NATO(北大西洋条約機構)の創設に発展した。NATOは直接的にはベルリン封鎖を動機に形成されたが,マーシャル=プランや西欧連合条約を母体として,アメリカ・カナダと西ヨーロッパ諸国にトルコを加えた集団安全保障体制の結成となった。一方,ソ連はトルーマン=ドクトリンによる冷戦開始により,衛星国東ヨーロッパのブロック化の必要性から,1947年9月,コミンフォルム(共産党・労働者党情報局)が,1943年5月に解散されていたコミンテルンに代わって設置された(ユーゴスラヴィアの国際共産主義運動の離脱やユーゴ方式の批判から,1948年6月ユーゴスラヴィア除名。そして,1956年4月共産主義運動の前進の成果をあげつつも,組織内の矛盾から解散)。さらに,経済版として,社会主義国体制内での自給体制を確立し,西側諸国の経済封鎖に対抗するために1949年1月SEV(COMECON,経済相互援助会議)が結成された。その後,東ヨーロッパ諸国に急速にスターリン化(スターリン主義的政治機構の採用・政治的粛清・重工業優先など)が浸透していった。同年9月にはシベリアでソ連が初の原爆実験に成功し,アメリカの核独占支配は崩れたが,核戦争への憂慮がとりざたされてきた。同年10月,中国で共産党が国民政府を台湾に追放して社会主義国を樹立したことにより,東西間の緊張はいっそう強まった。アメリカは1948年3月に自国の対共産圏輸出統制計画を開始するとともに,マーシャル=プランによる援助受け入れ国と協議し,援助物質によって生産された物資が東側諸国に流れないように,国際的機関として,1950年1月COCOM(対共産圏輸出統制委員会)を設置した。当初は欧米12カ国が参加したが,その後日本・ギリシア・トルコが加わった。また,アメリカは,1951年10月禁輸リストに載せられた約400品目の物資を,東側諸国に輸出した国に対して,いつでもその国に対する援助停止ができる相互防衛援助統制法(バドル法)も成立させた(1952年1月より実施)。1950年6月に勃発した朝鮮戦争ではアメリカは国連に提訴し,北朝鮮側からの侵略の決議をたてに,国連軍をアメリカ軍で編成し,韓国を支援した。これに対して,中国は北朝鮮に軍事援助したことから,1951年5月第5回国連総会は,中国を侵略国とみなし経済封鎖を行うという決議を勧告した。アメリカはこれにもとづき,1952年9月中国および北朝鮮に対する貿易統制を,他の東側諸国向け貿易よりも厳格にする目的で CHINCOM(対中国輸出統制委員会)を設置した。アメリカは,朝鮮戦争を契機にアジア・太平洋地域で反共体制の足固めとして,1951年のうちに米比相互防衛条約・太平洋安全保障条約(アメリカ・オーストラリア・ニュージーランド3国の ANZUS 条約)・日米安全保障条約を結んだ。1953年1月にアイゼンハウアーが大統領に就任すると,ダレス国務長官の巻き返し政策を基調に,1954年1月の大量報復政策,1956年1月の瀬戸ぎわ政策と一貫した反共政策の強化にむかい,1953年10月の米韓相互防衛条約,1954年9月のSEATO(東南アジア集団防衛条約),同年12月の米台相互防衛条約などが調印された。こうした西側の動きに対し,1953年3月スターリンの死後,フルシチョフ第一書記のスターリン批判(1956年2月)による理論・政策の動揺で,ポーランド反ソ暴動(1956年6月)とハンガリー動乱(1956年10〜11月)が生じたが,西ドイツの NATO 加盟(1954年10月)と再軍備に備え,ソ連・東ヨーロッパ8カ国とのあいだで,1955年5月にWTO(ワルシャワ条約機構)を結び,防衛体制を整えた。また,アメリカの原子力潜水艦の完成(1952年6月),ビキニ海域での水爆実験(1954年3月)に対して,ソ連も初の水爆実験を1953年8月に行い,アメリカに先じて,1957年に ICBM(大陸間弾道ミサイル)や人工衛星スプートニク1号の打ち上げに成功し,アメリカに大きな衝撃を与えるとともに,核戦力の格差の縮小を示す結果となった。冷戦のなかにあって朝鮮休戦協定(1953年7月)・インドシナ休戦協定(1954年7月)が調印され,さらに,1955年7月ジュネーヴにおいて,アメリカ・イギリス・フランス・ソ連四大国巨頭会談で国際平和への動きがみられ,1959年9月フルシチョフ首相の訪米で“雪どけ”ムードとなり,平和共存路線を設定した。東西貿易は戦前(1938年)の15.0%から1948年には6.8%,1953年には5%を切り,冷戦の影響が大きく影を落としていたが,社会主義諸国内でのアウタルキー経済の急速な発展と朝鮮・インドシナ休戦による緊張緩和は,東西間の使節団の交流と貿易拡大にむかった。1954年8月 COCOM 制限の第1回の緩和を契機に,1957年5月イギリスは一方的に禁輸リストの緩和を宣言したため,CHINCOM は事実上崩壊し,COCOM に一本化されるに至った。
【1960年代の東西関係】1959年1月のカストロのキューバ革命の成立でアメリカは空前の衝撃を受け,1961年1月大統領に就任したケネディはキューバと断交し,経済封鎖を行い,キューバをソ連・中国に接近させることになった。同年3月進歩のための同盟計画により,中南米の社会経済改革の構想を提唱し,進歩はイエス・独裁はノーと演説し,この席に招かれなかったキューバとドミニカを独裁国として糾弾,4月にキューバ侵攻に失敗してアメリカの威信を傷つけた。1962年10月ケネディはキューバにソ連のミサイル基地建設を発表し,キューバ向けの攻撃的武器を積む船舶は国籍を問わず阻止するという海上封鎖を実施,ソ連にミサイルの撤去か戦争かを突きつけた。この結果,ソ連が譲歩したため,ケネディも海上封鎖を解き,13日間のキューバ危機は回避された。1963年8月にはモスクワ・ワシントン間直通通信線(ホットライン)の開設と,戦後の軍縮史上初めての成果として,アメリカ・ソ連・イギリス3国が地下実験を除く部分核実験停止条約に調印し,それによってアメリカ・ソ連は接近した。ケネディはニュー=フロンティア政策を揚げ,外交政策の上では小規模な地域紛争にも対応できる柔軟反応戦略を採用し,自由のためには出兵は辞さない現実路線をとり,南ヴェトナムにおける共産主義勢力拡大阻止のために積極的に介入した。また,ソ連との軍事力不均衡を是正するために軍事力強化を図るとともに,国際緊張緩和をめざした。これを受け継いだジョンソン大統領はヴェトナムへの大規模な軍事介入を行った。1964年8月には北ヴェトナム攻撃の口実としてトンキン湾事件をおこし,翌年2月から北ヴェトナムへの空爆を行い,ヴェトナム戦争は泥沼化していった。それとともに1968年1月のプエブロ号事件による北朝鮮や1967年6月の第3次中東戦争などへの軍事介入という各個撃破政策も遂行した。とくにヴェトナム戦争でのジェノサイド(皆殺し)作戦やソンミ村虐殺事件(1968年)によって内外から非難を浴び,また,ドルの莫大な流出とヴェトナム民族解放戦線による大攻勢の展開で,アメリカは軍事介入の挫折を余儀なくされ,ついに1968年3月北ヴェトナム爆撃の一方的停止を発表し,5月北ヴェトナムとのあいだでパリ和平会談がもたれた。また,1965年から始まった国連下部機構の18カ国軍縮委員会は非核保有国が核兵器を新たに保有することと,保有国が非保有国に対し核兵器を引き渡すことを同時に禁止しようとする核拡散防止条約を1968年7月に調印したためアメリカ・ソ連間の協調体制ができた。1964年10月フルシチョフ失脚後ソ連ではブレジネフ政権が誕生し,フルシチョフのみせかけ戦術に代わって,アメリカと対等かそれ以上の軍事力をもつ均衡以上戦術が採用され,猛烈な勢いで軍拡路線がとられ,ソ連の東側圏内での指導性の回復と強化をはかった。しかし,1968年8月には自由化運動を急速に進めたチェコスロヴァキアに軍事介入する事件があり,1956年から続いた中ソ論争から,1960年には表面化した中ソ関係はその後の対立が深まり,1969年3月の中国・ソ連国境ウスリー川のダマンスキー島で,両国の武力衝突を招き,対立は決定的となった。このような東側の内部対立,そして西側での EC(ヨーロッパ共同体)の発足(1967年7月)と発展によるアメリカ経済の地位低下,フランスの NATO 軍事機構からの離脱(1966年7月)などの分裂や第三世界としての発展途上国の台頭により,世界の二極構造は多極化へと向かった。1960年代の東西貿易は順調に伸びた。とくに,ソ連の農業の不振によるアメリカからの小麦の買い付け(1963年)は,アメリカの東西貿易に対する政策の再検討を促すこととなった。東西ヨーロッパ間は平和共存関係をいっそう強め,西側は東側の経済成長と経済力に対する魅力から工業製品・プラントの市場獲得を,東側は技術革新の遅れ,西側との格差を埋めるべく積極的に貿易拡大につとめた。また,中国は,1960年のソ連からの経済援助打ち切りによって貿易相手国は西側に傾斜し,1965年には西側先進国との貿易高は社会主義国を凌駕した。
【1970年代の東西関係】1969年就任したアメリカ大統領ニクソンは7月ニクソン=ドクトリンを発表し,ヴェトナム軍事介入からの名誉ある撤退とアメリカの力による平和の再構築をめざす政策を掲げた。11月の“ヴェトナム化”演説では,戦争のすべてを南ヴェトナムの責任とし,ヴェトナム問題を彼ら自身で処理させ,東南アジアからのアメリカ軍を徐々に撤退させる立場を表明した。これを実現するため,ソ連との関係を安定させながら中国に接近する外交政策方針をとった。これを受けて,1970年4月にはウィーンでソ連とのあいだで SALT I(第1次戦略兵器制限交渉)の本会談が始まり,1972年2月のニクソン訪中と上海コミュニケ発表で対話の道を開くことになり,同年5月には訪ソにより,SALT I が調印され,ABM(弾道弾迎撃ミサイル)の上限数と戦略攻撃用ミサイルの暫定協定に合意した。このとき,アメリカは自国の技術的優位性に自信をもっており,ソ連に対する数量的優位を認めた。しかし,核実験や核兵器の質的改善の阻止などが対象外とされ,問題点は11月の SALT II に持ち越された。1973年6月ワシントンで米ソ首脳会談がもたれ,SALT II の基本原則が確認され,米ソ核戦争防止協定(ワシントン宣言)により,SALT I での核不戦の誓い(モスクワ宣言)から出発して,双方の政策目標が核戦争・核使用の危険性を除去することで同意した。しかし,これは核戦争の放棄を宣言したものではなかった。1974年6〜7月のモスクワでの米ソ首脳会談では,地下核兵器実験制限条約と ABM 制限条約付属議定書に調印し,核兵器の量的のみならず質的制限を規定するという方針の合意で終始した。1974年11月のウラジウォストクでの米ソ首脳会談(フォード・ブレジネフ)は,SALT II の大わくの基本原則(SALT I の失効する1977年以降適用の新協定調印を1975年中とする,戦略兵器とその運搬手段の保有量の上限設定など)に合意し,一歩前進した。ニクソン辞任後昇格したフォード大統領の外交政策はニクソン外交の継承であり,1975年4月のヴェトナム介入終結宣言を公式に表明,南ヴェトナム政府は無条件降伏し,サイゴンは陥落した。同年末にはラオス,翌年には南北統一のヴェトナム,カンボジアのインドシナ三国は,アメリカの意図に反して社会主義国への道を踏み出した。1975年12月,フォード大統領はアジア政策を重視した新太平洋ドクトリンを発表した。その骨子は日本を中心としたアジア太平洋諸国との関係強化に力点を置き,中国との国交正常化によりソ連の進出に対抗しようとする姿勢であった。1970年代前半のヨーロッパにも東西の平和攻勢の波が押し寄せた。1970年8月の独ソ武力不行使条約が西ドイツとソ連とのあいだで調印したのをかわきりに,1972年12月には東西両ドイツの基本条約調印で両国の関係正常化と善隣友好協力を築くことを唱え,翌年9月国連に同時加盟し,西ドイツの東方政策は一応完結し,ヨーロッパにおける緊張緩和を大きく前進させた。1975年7月ヘルシンキでの欧州安保協力会議では,アルバニアを除く全ヨーロッパ35カ国の首脳が参加し,第二次世界大戦の完全終結と相互の国境尊重など10原則を中心としたヨーロッパの安全保障の確認と今後の協力体制を固めた。人権外交を看板に登場したアメリカ大統領カーターは1977年5月に新外交政策を発表し,力による均衡を原則とした対ソ優先のキッシンジャー外交を転換させ,人権尊重と理想主義復活を柱に,国益を超えて人権抑圧政策をとる国を攻撃する姿勢を示した。ソ連の反体制知識人サハロフ博士への書簡送付(1977年2月)をはじめソ連の人権抑圧政策への攻撃で,ソ連との関係を緊張させることとなった。しかし,イスラエルとエジプトの和平実現(1978年3月),米中国交正常化(1979年1月),ウィーンでの SALT II の調印(1979年6月)などの成果をあげた。アメリカ・ソ連の核抑止論は,両者を軍拡競争にかりたててきたことから,軍拡競争の激化に歯止めをかけ,完全軍縮を宣言し,核軍縮の効果的な措置と核戦争の防止を最優先させることを国連が初の特別軍縮総会(1978年5〜6月)で採択した。1970年代後半は,ソ連が軍事力の相対的優位を背景に,軍拡に力を入れ,中東やアフリカに進出し,革命闘争や民族解放運動への積極的な支援を行い,世界的な軍事・政治基盤の拡大強化をはかる二面戦略(デタントとミサイル)路線がとられてきた。1978年4月のアフガニスタンの親ソ政権誕生を契機に,イスラム教ゲリラの反乱と二度の軍事クーデタの動揺から,1979年12月ソ連軍が侵攻した。東側諸国以外の独立国に初の大規模な地上軍を派遣したことは国際情勢に大きな衝撃を与えた。東西貿易は1970年前半にめざましい発展を遂げた。とくに西側先進国からの輸出が30%強と激増し,東側からの輸出も20%強を示した。西側にとっての依存度は低いが,東側のそれは非常に大きく,この結果東側は恒常的で大幅な貿易赤字と債務膨張をもたらした。後半に入り,逆に西側に対する輸出拡大と選択的輸入努力によって調整期の段階に入った。また,1973年の第1次石油危機による,国際石油価格の高騰が,ソ連の東側諸国向け燃料価格の大幅引上げとなり,西ヨーロッパとの西シベリアでのエネルギー開発における経済協力が活発化してきた。同時に,1972年以降ソ連の穀物不作と大量買い付けにより世界の穀物需給に大きなインパクトを与え,その価格を大きく変動させた。また,巨額の代金支払いのため,金売却は国際金市場を動揺させることにもなった。中国では1978年の“四つの近代化”路線決定で,欧米先進国との貿易の拡大をはかってきている。
【1980年代の東西関係】1979年のソ連のアフガニスタン侵攻で米ソ関係は再び悪化し,イランでのイスラム革命(1979年1月)や米大使館員人質事件(1979年11月)にいら立ったカーターは,1980年1月にソ連の新しい脅威に断固として戦う姿勢を打ち出し,ペルシア湾を中心とした中東地域の安全保障のための軍事力増強を強調した(カーター=ドクトリン)。このために対ソ制裁措置をとることを明らかにし,すでに許可した分を含め,ソ連向けの先進技術をはじめ経済・文化交流拡大の延期,モスクワオリンピックのボイコットなど,強力な制裁を行い,1981年1月には軍事力強化と対ソ強硬路線を主張し,強いアメリカの復活を訴えたレーガンが大統領に就任した。彼は対ソ脅威論を唱え,力の対決による平和戦略の遂行のため,西側同盟国との連帯と協力を強化し,ソ連に圧力を加える外交政策を展開したため,東西対立の激化とともに欧米・日米関係に少なからぬ亀裂を生じさせることとなった。1979年12月 NATO の理事会で,アメリカが開発中のパーシング II型と巡航ミサイルを1983年末から西ヨーロッパに配備することを決定したことを受けて,1981年11月にアメリカ・ソ連は INF(ヨーロッパの中距離核戦力制限交渉),1982年6月の START(戦略兵器削減交渉)を開催したが,双方に大きな隔たりがあり進展しなかった。一方,ソ連はアフガニスタン問題やポーランド労働者ストライキ問題などの解決もみず,1982年11月のブルジネフと1984年2月のアンドロポフの死去による政権交代で,政治・外交的な対応力は低下した。1983年9月におきた大韓航空機のソ連機による撃墜事件と10月のアメリカ海兵隊のグレナダ軍事侵攻は新冷戦時代を象徴する事件となった。
その後,アメリカ・ソ連間の INF 交渉決裂や START の無期休会への引き金となり,軍縮交渉は完全に途絶えた。レーガン大統領の力の政策は,1983年4月 MXミサイル(新しい大陸間核ミサイル)を1980年代後半に主力 ICBM として配備決定に及び,軍拡競争は深刻化した。1984年7〜8月のロサンゼルス=オリンピックでのソ連・東ヨーロッパ諸国の不参加は東西対立の深淵を物語る出来事であった。しかし,西ヨーロッパ諸国はアメリカの対ソ制裁には同調せず,ソ連向けの穀物輸出をはじめ,天然ガス供給のためのパイプライン建設協力が進み,1984年1月から,西シベリアからフランス・西ドイツなど西ヨーロッパ7カ国を結ぶ天然ガスパイプラインが開通したことにより,ソ連は喜び,アメリカは衝撃を受けた。アメリカはソ連への過度の依存だと警告したのに対し,西ヨーロッパ側は長期不況のなかでの東西貿易の重要性を強調し,相互依存戦略の効用を主張している。
〔参考文献〕戦略問題研究会編『戦後世界軍事資料』1―5,1970〜1984,原書房
八木勇『アメリカ外交の系譜』1981,朝日新聞社
ソ連,東欧総覧刊行編集委員会編『ソ連・東欧総覧』1973,読売新聞社
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