●東西交渉史 とうざいこうしょうし
アジア 中華人民共和国 AD
この語は東方と西方のかかわりといった程度の,ごく漠然とした意味で用いられており,その内容は必ずしも明らかでないが,ここで一応,東は東アジアの地大物博な国である中国,西はその西方に展開する国や民族のすべて,という意に解しておきたい。【取扱う範囲】まず取り扱う年代の上・下限についてどう考えたらよいか。東西交渉というと,ともすれば,張騫・西域遣使に始まったように解されがちになるが,これは交渉の史実に徴し,ぜひさけなければならない。ユーラシアにおける東西交渉は,イルクーツク付近のマルタ村で発見された女人裸像によっても察知されるように,すでに旧石器時代からうかがわれ,新石器時代になると,彩文土器・麦類の東伝という風に,西アジアの農耕文化が東アジアに伝播し,各地の開発に資していることが知られるのである。したがって,その初期については詳しくふれられないまでも,原始にまでさかのぼり,相互の関連づけをはかりながら述べる必要があろう。下限については,世界一体化の始期設定の問題とも開連し,文化圏学習と直接にかかわってくる。というのは,文化圏学習が,認識の是非はともあれ,文化圏学習を補完する手段として位置づけられているからである。この点に関し,文部省『高等学校学習指導要領解説』(1979,昭和54)では〈文化圏の下限をほぼ18世紀にまで下げ〉と解説している。1972年(昭和47)版に比し3世紀引き下げられているが,しかし,これでもなお十分とは思えない。発展途上国における伝統対華新という深刻な葛藤過程を考慮にいれ,この下限は,第二次世界大戦終結時まで下げてもよいのではなかろうか。いずれにしても,東西交渉史で取り扱う下限は,あまり固定的に考える必要はないであろう。次に東西交渉を促進した要因として,(1)交易,(2)交通手段,(3)征戦などがあげられるであろう。いうまでもなく,交易は自分のところに欠ける物資を他に求め,他にないものを提供する行為をさすが,この慣行はすでに旧石器時代からうかがわれ,取り引きされる品物は,時代の下降とともに多種・多量になっている。また,交易に伴い無形の精神文化の伝播が,しだいに活発になったことも確かである。このようないわば自然発生的な交易・交流に対し,一大拍車をかける契機となったのは,騎馬の発明,とりわけパルチア時代に蹄鉄が発明され,馬具類の改善と相まって,旅行が著しくスピードアップされたことである。すなわち,歩行であれば1日せいぜい20〜30kmであるのに,約10倍の二百数十kmを踏破することが可能になり,さらに,キャラバンの編成によって,大量の物資を搬送することができるようになったのである。東西の交通ルートとしては,大きくいって,(1)北方の草原を東西に結ぶいわゆるステップ=ロード,(2)中国・トルキスタン・西アジア・インドをつなぐシルク=ロード,(3)中国・東南アジア・インド・西アジア・アフリカを海によって結ぶマリン=ロード(海路)の3ルートがある。このうち前二者はもっぱら騎行によるもので,10世紀ごろまでは東西交通の主流をなしていた。海路は,古くからインド商人やアラブ=イラン系商人によって利用されていたが,唐末ごろから中国人の進出が目立ち,やがて海上交易の主導権を握るに至った。15世紀における鄭和の南海遠征にその一つの現れである。ところで,相互依存にもとづく交易にもおのずから限界がある。取引上における利害関係の衝突,貧富のひらきに根ざす侵掠,勢力拡大をはかる支配者の征服など,欲望にからむ諸行為が民族や国家間にしばしばおこり,平和的な交流を妨げたからである。だが皮肉なことに,この破壊や混乱ののち,両者間の交流がかえって一大飛躍をとげた例も少なくない。アレクサンダーの東征,チンギス=ハンに始まるモンゴルの西征などはその著例である。
【中国の文化受容態度】次に問題になるのは,それぞれの民族や国家が歴史的にどのような態度をもって異質の文物を受容し,また,それがどの程度まで根づいたかという点であるが,ここでは東アジアの代表例として中国を取り上げることにしたい。中国の文物受容を歴史的に大観すると,以下の4期に区分される。(1)原始→戦国末……自主的受容期。(2)秦→南京条約締結(約21世紀)……自主的受容期。(3)清末→太平洋戦争終結(約1世紀)……受動的受容期。(4)中華人民共和国成立→現在……合目的受容期。このうち(1)は論外として,(2)は(ア)秦から宋,(イ)元,(ウ)明から南京条約締結の三つに細分することも可能である。しかし,いずれの期において貴族趣味的・好奇的欲求が強く,一般民衆を対象に積極的に文物を受容しようとする態度はみられなかった。またその浸透度もきわめて限られていた。(3)は,中華主義の誇示・温存がしだいに客観性を失い,欧米文化に不本意ながらある程度席を譲らなければならなくなったときである。それだけに,民衆のあいだにも中国人としての自覚が高まり,すでに種々の利権を獲得した列強の滅罪的文化工作とタイアップする形で,欧米の近代文化を積極的に摂取しようとする動きが活発になってきた。だが,功をあせるあまり皮相的な受容にとどまり,民衆の力強い共感を得るところまでにはいたらなかった。(4)はいわば,この欠点を補い,しかも,中国の民衆が文物受容を選択する主体にさしかかったということができよう。
〔参考文献〕伊瀬仙太郎「中国人の文化受容態度」天地人7.1954
伊瀬仙太郎『世界文化交流史』1963,金星堂