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●銅剣・銅鉾文化 どうけん・どうほこぶんか

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 弥生時代の銅剣・銅鉾(矛)および銅戈は,縄文時代からあった遠隔武器としての弓矢とは違って殺傷力が強く,しかも接近して相手に致命的な打撃を与える衝撃武器である。つまり剣はその基部の柄を直接手に握って使用し,鉾と戈は木柄をつけてそれを手に握ってそれぞれ白兵戦によって相手を倒す武器である。これら3種の武器は,弥生時代の前期に相次いで朝鮮半島から北九州にもたらされ,中期になって国産品がつくられるようになるにつれて急速に武器としての機能を失い,儀器や祭器として製作されるようになるが,近畿地方や東海地方での銅鐸とほぼ同じように基本的には弥生時代でもって製作を終わっている。中国では,殷時代以来銅戈と銅鉾が主要武器で,秦の始皇帝陵に伴う兵馬俑坑からも銅鉾が出土している。銅剣は銅戈や銅鉾よりおくれて西周時代に現れるが,中国では“身(み)”(刃部)から柄(え)までを同じ鋳型で同時に鋳造した桃氏(とうし)剣が盛んであったが,中国の周辺地方ではさまざまな形の銅剣が生まれた。北九州の銅剣も,桃氏剣の影響を受けたものではなく,中国遼寧省・ソヴィエトの沿海州・朝鮮半島に分布している細形銅剣に属するもので,これは身とは別拵えの柄をつけるための“茎(なかご)”(基部の突出部)をもったいわゆる有茎式銅剣である。だから銅剣・銅鉾・銅戈は中国で発達した武器ではあるが,弥生時代に北九州へまず製品(舶載品)としてもたらされたのは,銅鉾や銅戈をも含め朝鮮半島,とりわけ半島東南部の辰韓のものであった。銅剣・銅鉾文化というのは,武器および儀器・祭器としての銅剣・銅鉾および銅戈の分布が,銅鐸の分布と一部重複するところはあっても,みかけの上で北九州と近畿地方とにそれぞれの中心があるようだというので使われており,そのように二つの分布圏があるのは事実とみてよかろう。銅剣・銅鉾の分布は須玖式土器のひろがりと,銅鐸の分布は櫛目土器のひろがりと関連づけられている。しかし銅剣・銅鉾の分布圏がさらに積極的に銅剣・銅鉾文化と呼べるかの検討は今後にまたれる。銅鐸の原料を輸入武器とみて,銅剣や銅鉾を鋳つぶして銅鐸にしたと仮定すると銅鐸の分布圏にも本来多数の舶載の青銅製武器が分布していたとして,二つの分布を軽くみる説もあるが,最近では銅鐸の原料が日本列島の自然銅とする新しい説があったり,さらに仮に輸入武器を鋳つぶしたとしても,どうして銅鐸という形につくりかえる理由があるのかという点で,複雑ないりこみはあっても銅剣・銅鉾分布圏と銅鐸分布図はあるとみてよかろう。最近での注目すべき発見は,北九州でも古式の銅鐸が製作されていたことと,近畿でも銅剣や銅戈を製作していることがわかり,二つの分布圏の問題がいよいよ複雑化した。また1984年(昭和59)に島根県斐川町荒神谷遺跡で358本という従来の銅剣発見数を上回る一括埋納が確認されたことも北九州と近畿という二つの中心に加え,出雲の重要性が浮かび上がってきた。ところで銅剣と銅鉾・銅戈とでは時期と地域で異なった動きをみせている。つまり最初は武器として銅鏡や玉類などとともに北九州の各地域の王(中国人からみて)や有力者の墓に副葬されていたものが,北九州で国産品が現れるようになると,銅鉾と銅戈が急速に長大化して実用の武器としての機能の失われた儀器や祭器となった。とくに,北九州でつくられた巨大な広鋒銅鉾が対馬に集中するのは『倭人伝』の記載とともに注目されている。これに対して,同じ北九州では実用的機能の銅剣が鉄で製作され,そのまま鉄剣に移行し,それは古墳時代前期に受け継がれていく。したがって弥生前期にもたらされた3種の衝撃武器のうち,剣が主要武器として定着した。だが北九州での銅剣から鉄剣への移行の流れとははずれ,島根県では銅剣が長大し,荒神谷遺跡にみるように出雲型銅剣を生み出し,また瀬戸内海沿岸地方では広鋒銅鉾の影響も加味された扁平な平形銅剣を生み出し,一括埋納されたり,山腹や海岸に祭器として埋められている。また銅剣は,木製品・石製品としても模作されたが,これらも銅剣への信仰や愛用の影響である。