●道元 どうげん
アジア 日本 AD1200 鎌倉時代
1200〜1253(正治2〜建長5)日本曹洞宗開宗の僧,大本山永平寺の開祖。諱は希玄。俗姓源氏。内大臣久我通親(一説に通具)の子。母は藤原基房の女。3歳にして父の急逝にあい,8歳の冬に母を失う。1212年(建暦2)13歳のとき,叡山の麓の良観(顕)を訪ね出家の志を告げ,ついで叡山横川の首楞厳院の般若谷千光房に入り,翌1213年(建保元)14歳で天台70代の座主公円について得度す。しかし叡山の教学に満足せず下山し,三井寺(滋賀県大津市)こと園城寺の長吏であった公胤を訪ね,発心修行について疑問を質したが解決せず,その指示に従い京都建仁寺において栄西の高弟・明全(みょうぜん)に師事し臨済の禅風を学ぶ。1223年(貞応2)24歳の春,明全とともに博多の津を出航し宋の明州慶元府(中国浙江省寧波)に到着。ついで天童山景徳寺に入り無際了派(むさいりょうは)の会下で修行したが,翌年了派の入寂にあい諸山を遍歴し,1225年(嘉禄元・宋の宝慶元)長翁如浄化浄(ちょうおうにょじょう)が進住したことを聞き再び天童山に登る。この年5月に同行滞留していた明全の病死にあう。如浄と契合し身心脱落の大事を明らめ印可を受け,1227年(嘉禄3・安貞元)帰国。京都建仁寺に仮寓し『普勧坐禅儀』を撰述する。1230年(寛善2)京都深草の安養院に移住し,翌年『正法眼蔵辨道話』を撰述し,坐禅中心の仏法を内外に宣言するところがあり,漸く道誉を聞いて来集する参学の徒も増した。1233年(天福元)34歳の春,藤原教家・正覚尼などの請願に応じ,京都深草の地に観音導利院興聖宝林寺を開き,わが国最初の本格的な坐禅道場・僧堂を建立し,以来約10年間ここにとどまり,主著『正法眼蔵』中約45巻余を撰述して僧俗を教化し,また孤懐弉(こうえんじょう)(1198〜1280)をはじめ日本達磨宗の一派が集団入門し宗団の大をなすに至った。その後『護国正法義』一篇を著し,ほかの教家を批判したため叡山の圧迫を避け越前(福井県)に入ったともいわれるが,原本が存しないので定かではない。1243年(寛元1)44歳の夏,波多野義重の勧請を受け入れ,その所領である越前志比庄にむかい,安閑の古寺ともいわれた吉峰寺の草庵に住み,また東南15kmほどの禅師峯(やましぶ)を道場とし両処を往来しながら弟子の教化にあたった。翌1244年(寛元2)に傘松峰大仏寺を創立し,開堂の法会を修している。ついで1246年(寛元4)には,大仏寺を永平寺と改めた。かくて修行僧の生活規範となる清規(しんぎ)を制定し,もっぱら只管打坐(しかんたざ)の仏法を鼓吹し,時に達磨宗の根拠地である波着寺(なみつきでら)へ出向教化したともいわれるが,ほとんど山を出ることはなかった。1247年(宝治元)北条時頼の招きに応じ,下山して鎌倉にむかい,名超(なごえ)の白衣舎=在家を宿とし,信徒のため法を説き,また菩薩戒を授け半年余り滞在したが,翌年の春に帰山し,この年の冬に傘松峰の山号を吉祥山と改めている。1250年(建長2)に後嵯峨上皇より紫衣を賜わるが固辞して受けなかったといわれる。その後,病をえて住持職を懐弉にゆずり,波多野義重の勧奨に応じ,京都高辻の俗弟子・左金吾禅門覚念の邸で療養につとめたが,1253年(建長5)8月28日54歳で入寂した。道元によって開宗された曹洞宗は,そのあと瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)を経て1万5,000カ寺を有する仏教系最大の宗団として発展した。しかも詩藻豊かな道元の著述は高く評価され,和漢両様にわたる独特な表現と思想展開は,東西哲学者の注目するところとなっている。仏性伝東国師および承陽大師の諡号を得ている。
【著述】漢文体『普勧坐禅儀』1巻,『学道用心集』1巻,『永平広録』10巻,『永平清規』(1)典座教訓(2)辨道法(3)赴粥飯法(4)衆寮清規(5)対大己五夏闍梨法(6)知事清規各1巻,『宝慶記』1巻,和文体『傘松道詠』『正法眼蔵』95巻,『正法眼蔵随聞記』6巻など。