●東京専門学校 とうきょうせんもんがっこう
アジア 日本 AD
早稲田大学の前身。1881年(明治14)政変で下野した大隈重信が小野梓にはかり,小野の傘下にある高田早苗,天野為之,市島謙吉ら鴎渡会の青年たちの参加を得て,1882年10月当時大隈の別邸があった南豊島郡下戸塚村の早稲田に,洋風木造2階建の3棟の新校舎で開校した。初代校長に大隈の養嗣子大隈英麿が就任。開校式には大隈校長の開校宣言,ついで天野の演説,成島柳北の祝辞ののち,小野が同校設立の抱負を述べ,学問の独立こそが国民精神の独立,一国の独立の基本理念であることを強調した。小野のいう“学問の独立”とは,政治からの独立とともに母国語による学術の教授という意味がある。明治初期には外国語によらなければ高尚な学術の教授は不可能とする通念があった。これは学問の道を歪曲するばかりか,国民の他国民への隷属につながるものと考えられたからである。以来,“学問の独立”は「実用の教育」「模範的国民の養成」とともに,同校の教育の基本方針となり,1913年(大正2)創立30周年に際して「早稲田大学教旨」となる。創立時政治経済学科,法律学科,英語学科(以上3年制),理学科(4年制,1884年廃止)の4科で発足し,学生数80名。校長のもとに幹事に秀島家良,議員に前島密,鳩山和夫,矢野文雄,小野梓,島田三郎,北畠治房,成島柳北,沼間守一,牟田口元学らが就任。講師陣に小野,高田,天野,山田一郎,砂川雄峻,岡山兼吉,山田喜之助,大隈英麿,田原栄,田中館愛橘,石川千代松,坪内雄蔵らが名を連ねる。創立時の俸給は専務講師の高田らは30円,代言人,新聞記者を兼ねた山田らは15円という(米1升11.5銭)。講義の担当時間は専務講師は週30時間であった。同校が藩閥政府の敵対者大隈・立憲改進党との関係で官憲から同校が“謀叛人養成所”とみなされ,創立より数年間は学生募集・教員雇聘・資金策のうえで圧迫が加えられ存立の危機に遭遇した。1884年6月学術研究・書籍収集・演説講話会開催を目的とする「同攻会」が発足し,翌年3月に機関誌『中央学術雑誌』創刊。1884年7月第1回卒業式(卒業生12名)。1886年1月同校創立功労者小野病没す。4月学制改革で学部を政治経済学・法学・英語学の3学部に分け,修業年限を4カ年として充実を期する。5月に政治・法律2科(のち行政科,文学科を加う)の講義録を発刊,通信教育制を設け校外生を募り,教育の機会均等に資する。1887年9月前島密校長就任。1888年6月に教則改正があり,全学を政治・法律,第一法律,第二法律(行政),英語学の4学科に分かち,従来の学部制を廃して学科制とし,再び3年制に改める。別に英語政治,英語第一法律,第二法律,その予備門として英語普通科(2年制),予科(2年制)を新設。1889年5月煉瓦造2階建の大講堂完成(関東大震災で倒壊)。1890年7月鳩山和夫校長就任。9月に坪内雄蔵の提議により文学科を創設,〈今日の如き時文の紛乱を済ふの道は和漢洋三文学の形式と精神とを研究して,これらを調和する方法を講ずるより善きはない〉とする発想にもとづく。坪内のほか大西祝,三島三州,三上参次,饗庭篁村,森鴎外ら教鞭をとる。1891年10月文学科より坪内の主宰で講義録風の雑誌として『早稲田文学』創刊,大西,島村抱月,五十嵐力,綱島梁川らが活躍す。1892年(明治25)10月創立10周年記念祝典。1893年8月巡回学術講話を開設,講師・校友が地方を巡り学術を市民に向け開放す。1895年10月同校出版部より欧米名著を『早稲田叢書』として刊行。1896年早稲田中学設立。1897年7月創立15周年式典。1898年社団法人となる。1900年2月校長・学監制をしき,校長鳩山,学監高田就任。9月同校最初の海外留学生として金子馬治,坂本三郎渡欧。1901年12月はじめて教室に電灯を点ず。1902年(明治35)9月早稲田大学と改称。大学部と専門部を新設し,大学部に政治経済学科,法学科,文学科をおく。〔参考文献〕早稲田大学『早稲田大学百年史』第1巻(1978),第2巻(1981)早大出版部
同『早稲田大学七十年誌』1952
同『早稲田大学一覧』1984