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道教 どうきょう
道教は儒教と並んで,中国人・中国社会が創造した中国の伝統的固有の文化である。儒教は,儒家・士大夫・官僚読書人によって主として説かれ,道教は,道家・術数・方技家・巫祝・道術の士によって,農民・民衆一般の生活信条・民問信仰が宗教としてまとめられたものである。儒教も道教も文化要素としては,哲学・思想・道徳はもちろん,政治・経済・社会に関連する宗教的文化的要素および科学的要素を複合的にもっている。戦国時代から漢代にかけて,「神道」「鬼道」の語が行われるようになった。ともに鬼・神を祠る壇に通ずる路をさすとともに,鬼・神の信仰の客体および信仰にもとづく教説をも意味するようになった。「天の神道」とか「聖人神道をもって教を説く」の如く,「神道」は,儒家の側での用語である場合が多い。「鬼道」は,民間の巫祝信仰やそれを中核とする道術士によって率いられる道教の原始的集団によって用いられる場合が多い。「道教」という成語は,先秦時代から行われている。初めそれは道・聖人の道の教という意味であった。民衆的信仰に関連しては,巫祝の呪術信仰を基礎にした「鬼道」や巫祝の集団を下層にもった「方僊道」が存した。鬼道と方僊道で行われた方術・道術が,道術士(道士)によって説かれ駆使されて,信仰の客体も老子の神格化と「神道」の神々を合わせ,農民民衆の宗教的集団が生まれた。後漢末期の「五斗米道」と「太平道」である。前漢代の思想・学間の分類からすれば,『漢書』藝文志の「諸子」のなかの「道家」「陰陽家」「雑家」「小説家」など,「兵書」のなかの「陰陽」,「術数」のなかの「天文」「暦譜」「五行」「蓍亀(しき)」「雑占」「形法」など,「方技」のなかの「医経」「経方」「房中」「神僊」(歩引・按摩・芝菌・黄冶)等々の諸要素が民衆的宗教集団に吸収されている。この宗教集団の教説に取り入れられた「讖緯(しんい)」説は,上記の術数のなかの「天文」の「図書秘記」を中心とする各類から生まれた。「道教」という成語のほかに,「道術」や「方術」の成語も先秦時代から行われていた。「道術」は,初め聖人の道の術の意味で,「方術」は巫祝の方,方僊・神僊方士の方,「医方術」「方技」の方術であった。後漢代に入ると,「方術」は,「神仙方士」の術・医方術・「方技」の術,さらに黄老・「術数」・讖緯(しんい)説・巫祝術など各種の方術を含み,さらにこれらの方術と同じ意味をもつ成語として「道術」の語も行われてきた。「方術」「道術」の用語とともに方術・道術の士の意味で,「方士」「道士」の用語も行われてきた。一方,聖人の道の教の意味での「道教」の成語は,六朝時代初めまで行われ,儒教はもちろん,外来の仏教も道教と呼ばれ,沙門も道士と呼ばれた。中国に仏教が伝来し,仏教と中国伝統的思想・宗教との接触があり,「神道」「鬼道」「五斗米道(ごとべいどう)」「神仙方術」の道などから形成された北魏の寇謙之(こうけんし)の新天師道が5世紀中葉,北魏の太武帝によって国教として認められ,「道教」と称せられた。これが,儒・仏・道三教の一の「道教」,仏教と対称される「道教」の名の始まりである。儒・仏と対称される「道教」の誕生の前には,「方僊道」「五斗米道」「太平道」などの農民・民衆の宗教集団の成立を考える必要がある。「方僊道」は,斉(せい)国の巫祝による天地山川の祠りと巫医の呪術的方術を基礎とする戦国時代の「方技」的科学技術と結びつき,神仙不死の薬を名山・海上に求め,不死の薬剤の代表と考えられた黄金をつくる神僊黄冶の術を説き実践する神僊方術士・方士の集団が,戦国時代に燕斉(河北・山東)の地におこった。神僊方士の活躍は,春秋戦国時代に発達した鉄冶技術を応用して富をなした商工豪富層によって支えられていた。すなわち不死の薬を名山・海上に求め,黄冶の術によって黄金を求める当時の商工業者の活動と一体であったのであろう。神僊方士が東海上に蓬莱(ほうらい)・方丈(ほうじょう)・瀛州(えいしゅう)の三神山があり,そこに人を遣わして不老不死の仙薬を求めることを説いたのは,当時の原初的貿易商人の,東北への海流による海東朝鮮・日本への交易と合わせ考えることができる。この神僊方士の説や活動に,戦国中期に斉国の豪富・士大夫層に支えられて発達した鄒衍(すうえん)の陰陽五行説など,代表的学問思想が影響した。戦国諸王侯の行う天地の神を祀る山川の祠りから,泰山(たいざん)の頂と麓で天地の神を祀る封禅(ほうぜん)説が説かれ,諸王侯,とくにのちの秦の始皇帝を動かし,封禅によって神に通じ不死神仙になり,海上の三神山に人を遣わして不死神仙の薬を求めようとした。一方,名山に天地の神を祀る山岳信仰は,陰陽五行説を合わせて五岳(ごがく)の祠りが説かれ,東西の交通(秦の勃興により促進される)によって戦国末期ごろには,仙人のいる西方の崑崙(こんろん)山や西王母(せいおうぼ)の神仙説がおこり,また東海から長江ルートの交通によって,東方の神仙説が戦国時代の湖広(ここう)地方の神仙説に影響を及ぼした。朝鮮半島における神仙説や日本への徐福(市,ふつ)伝説の波及も,戦国末期における海流による原初的交通事象と関係があるであろう。戦国時代の方僊道方士の活躍は,秦・前漢初期の諸皇帝と方士との関係のなかにも継続してみられる。この方僊道は『漢書』藝文志にある「方技」のなかの「神僊」を初めとする学問・科学技術の発展の源となるもので,後漢の神仙説(神仙道)の展開へと連なっていく。方僊道の方士の説く封禅説では,泰山の麓(高里)で「后土」を祀ることが行われた。この高里は,前漢の宣帝時代には民間の巫祝信仰と結びついて「蒿里(こうり)」即死人の界と思われてくるようになった。これを受けて前漢末期には,神僊説を包含した緯書家のあいだで,生人を司る西長安に対し,死人を司る東太山を対比して語られるに至った。こうして民間信仰としての太山・土地(后土)の冥界神が,後漢時代には広く行われるようになった。一方,前漢末に盛んに行われた西王母信仰は,西王母と太山の東王父とを対称する神仙思想として流布した。
184年(中平1)に,張角に率いられた「黄巾」を身に付けて標識として反乱した黄巾の徒の太平道は,巫医の呪術的方術(符水呪説によって療病)に加えて,陰陽五行説を取り入れた方僊道や漢代の神仙道的道術および黄老道など,雑多な民衆的宗教要素を混成した宗教結社である。太平道の教説は,干吉(かんきつ)(または于(う)吉)のいわゆる神書『太平清領書』の内容を基本としていた。それは「陰陽五行」と「房中」中心の方技の術(「興国広嗣」帝王の嗣子をうる方術)と巫祝の「雑語」を混じえて説かれていた。黄巾の首領張角は,巫医的方術を合わせた黄老道による集団を組織し,弟子を養い四方に派遣して10余年間に徒衆数十万,各地方(現在の山東・江蘇・安徽・河北・河南・湖北・湖南地方の「八州」)の組織「方」は36方にも及んだ。「大方」の馬元義(ばげんぎ)がかねて謀議された通り,京師禁中の宦官たちと内外呼応して乱をおこそうとしたが,それが同じ張角の弟子である済南の唐周によって184年に暴かれ,上書密告されて馬元義は車裂の死刑に処せられた。これをきっかけに張角らが反乱をおこした。太平道の教徒は,江淮・湖広地方の諸「方」の教徒,すなわち下層農民民衆層および末業無頼の徒をその主力としていた。その社会的性格は,黄巾に呼応しようとした宦官を京師に送り出した豪族支配下の農民・民衆社会と相通じるものであった。黄巾・太平道集団のなかの少数派は,1世紀の初め王莽の政権下に華北の農民が聚落を連ねて反乱した「赤眉(せきび)」の徒に近い農民集団で,それを代表する人物は,上記の済南の唐周であったであろう。黄巾の張角以下の幹部は,旗上げ後1年以内に曹操を中心とする討伐軍によって滅ぼされた。しかしその余党の反乱は192年ごろまで続いた。太平道的宗教要素は,農民・民衆社会に残り,215年以後の「関東」の五斗米道と混合するに至った。
2世紀初めごろ,現在の江蘇北部を初め江淮地域から四川盆地への流移の農民・民衆が多かった。その集団のなかに張陵がいて,四川で巫祝的呪術宗教を中心に宗教結社「五斗米道」をおこした。この集団には漢民族の流移民と当時東チベットから四川に進出してきたチベット族がいた。後者は,チベットに仏教が伝播した後のボン教(白ボン)ではなく,原初的ないわゆる黒ボンのチベット民族宗教を信じていた。これは中国の巫祝道的呪術宗教と似たものである。五斗米道には,この漢・チベット族の両民族の共通性をもった民間信仰を介して両民族の農民・民衆が含まれ,一つの宗教的共同体が成立した。張陵の後,子衡が継ぎ,さらに孫魯が継いだ。この教団に入る際に,米五斗を納めるので五斗米道の名がおこった。この教団では,魯のときまでに『老子道徳経』が教団内で「都習」され,「天地水三官」の神信仰が固まっていた。水官信仰は,チベットの民間信仰や西域からのインド系信仰から来たものかもしれない。張魯の教法は,魯自ら「師君」と号して「鬼道」をもって民を教え,教団の新入者すなわち「鬼卒」を率いる地区のリーダーを「祭酒」とし,大祭酒は「治」の部衆を統率するものという意味で,「治頭」と呼ばれた。各祭酒は「義舎」を管理し,そこに米や肉を置いて旅人に無料で与えた。欲張って必要以上に米肉を食べたものは,鬼神がその人を罰して病気とする。民衆共同体内のモラルである「誠」をもって他人を欺かないことや,殺生・飲酒を戒めることが説かれた。戒めにそむき罪を犯かせば病気となる。病者は,自己の犯した罪を「三官手書」に記し,天地水三官に祈れば治癒すると信ぜられた。五斗米道は,初め益州(四川)刺史劉焉の支配下にあって,張魯も焉の部下であった。焉の死後,焉の子劉璋は張魯の母を殺し五斗米道集団を圧迫したので,張魯は四川の地からその主勢力を陝(せん)西の漢中に移した(194)。この四川・陝西(巴・漢)の地域は,山がちの交通ルートにあたり,流移の農民・民衆が活動する地域であるので,このときに五斗米道の拠点「治」を連ねる「亭伝」のような組織が強化されたようである。張魯が漢中に本拠を移した後,劉備は荊(けい)州(湖北)から蜀に入り,劉璋の勢力を排除して蜀にその政権を確立した(214)。漢中の魯は,四川の諸葛亮に代表される儒教主義政治を行おうとする劉備と陝西に進出した現実主義政治を行う曹操の両面から圧力を受けたが,ついに曹操に降り(215),曹操の政治体制下に包摂され,宗教としては「三張」の五斗米道より「潼関(どうかん)」以東(関東)の五斗米道へと変貌した。関東の五斗米道は,三張のそれにあまりみられなかった神仙道(漢代,山東から江蘇に伝播していた)的要素が濃くなり,豪族層にも受入れられるように変化した。治を拠点とする農民・民衆の宗教組織に代って,豪族や地縁的農民・民衆集団に従属した民族宗教となった。この新型の五斗米道は,江南では王羲之一族の宗教となり,東晋末期の孫恩一族の宗教反乱(399〜402,410〜411)となり,華北では北魏の太武帝のとき(5世紀中期)の道士寇謙之(こうけんし)による新天師道として王朝権力に直接結びつくこととなった。寇謙之を帝に推薦した崔浩(さいこう)は,神仙道術を信じ自らも学んでいた。彼は漢人豪族の立場から仏教は夷狄の宗教であり,王朝の財政を損い,人民掌握力を弱くし,反乱分子をかくまうとの考え方から,寇謙之の教を信じ自らホウロク※注1※を受けていた太武帝にすすめて仏教弾圧策をすすめ,ついに446年の排仏となった(仏教側でいう「三武一宗の法難」の第1回)。
道教の教理の面は,後漢末より六朝時代に主として江淮・江南の豪族社会を基盤に,方技・術数の各分野において科学的研究と宗教的実践がすすめられ,仏教とも競合しておおいに発展した。道士のなかには,葛玄・葛洪(283〜4世紀前半期)や陸修静(406〜477)および陶弘景(456〜536)などが活躍した。葛洪は晋末,官僚として活躍したが時運に恵まれず道家の道に入り,壮年にして『抱朴子』を著した。この書の外篇は儒家・内篇は道家を扱っている。道家としては,術数系および方技系の黄冶を中心とする神仙諸術を極めた。神仙術では金丹を不老長寿の最上薬とする(のちの外丹中心)主張であるが,他の神仙諸術および術数系道術をも極めていた。その神仙術は緯書説および方技のなかの医経・経方の学をも合わせて,緯書家の説く三尸(さんし)説を道家に取り入れた。陸修静は,医経・経方・神仙諸術・術数諸術・関東五斗米道・緯書説等広い分野にわたって修業し,道経を集め道教上清派の基礎を築いた。陶弘景は,儒・仏・道三家の学を修め,梁の武帝の政治顧問となった道士で,江南の道家的知識人たちの宗教活動のなかでつくられた道経『上清経』『大洞真経』を根本経典とする六朝理論道教の代表,上清派道教の大成者である。彼は,医経・経方と金丹黄冶以外の神仙諸術(金丹を重視した葛洪と対照的)および術数諸術を総合して『真誥(しんこう)』を著し,また本草学の発展に貢献した。後世のいわゆる外丹的金丹を退け,仏教の影響をも受けて内丹的存思内観の法を説いた。また道教の神々の世界を整え,道教の曼陀羅ともいわれる『真霊位業図』をつくったといわれる。道教の主要神としては,後漢時代2世紀ごろには,黄帝に代わって老子が神格化され,老君となり道君となりさらに太上老君となった。寇謙之の新天師道では,太上老君が最高神であった。上清派の陶弘景では,元始天尊が最高神となった。これは天・上帝の思想が宗教化して,道教の最高神となったものである。この位業図で,道教の冥界最高神としてホウトホクイン※注2※大帝があげられた。南北朝時代,政治上では南北相互に対立し,文化上も相互に他を批判していた。文化上は北は仏主道従の文化で,南は道主仏従の文化であったが,文化上の交流はよく行われていた。したがって,江南の上清派中心の理論道教の発展は,北周武帝のときの道経集成の事業のなかに吸収された。仏教の中国への伝来以後,仏家と儒家道家の競合・対立の事象がおこった。仏教は,中国の術数・方技と道家的学問思想の衣を着て中国社会に受け入れられ,道家道教側は,仏教の教理経典・儀礼・道術等で受け入れられるものは受容し,道教の教理・組織を充実させた。王朝の立場からすれば,皇帝の公私(天下と皇室)の政治に寄与しうる場合に,仏道両教を利用することはあっても,その反対の場合は当然取締を厳重にした。僧尼・道士女冠は,出家であり反礼教的であり,人民としての税役の義務を忌避し,社会秩序を乱すことになる。とくに正式に認められた僧道以外の偽濫の僧道が増加すると,戸籍上「民」であって,その税役を忌避するものが多くなり,王朝財政の基礎を危くする。この意味では,仏教は道教よりも反王朝の程度が強かった。南北朝末期に,北朝の北周を中心に天下統一の気運が盛り上がった。北周は,儒家の政治顧問を迎えて『周礼』の制度によって天下を統一しようとしたが,第三代の武帝は儒・仏・道の学者を宮中に集めて討論を行い,儒教を中心に仏・道二教が,王朝の政治に協力させるよう指示した。しかし仏・道両教はたがいに論難するだけであった。還俗僧の衛元嵩(えいげんすう)は仏教弾劾の上奏を行い,仏教側から『笑道論』『二教論』が発表されて道教攻撃が展開された。道士張賓は,衛元嵩と結んで仏教弾圧策を上奏し,それを採用した武帝は僧道討論を行わせた上で,574年5月に両教をともに廃する詔を出した(三武一宗の第2回)。廃仏の年6月,これまでの玄都観を改めて国立宗教研究所である通道観を設置した。道士王延は勅命を受け,道教経典を校定して三洞経典8,030巻を集成し,通道観に蔵した。道教経典の収集と作成は,陸修静の『三洞経書目録』には1,228巻が著録され,洞真・洞玄・洞神に分けられていた。その後上清派等による経典の著作集成が進み,梁代ごろには四輔(しほ)の分類もおこった。北朝治下では,新天師道の経典に加えて,仏道論争を通じて仏典を模倣する道経も多くなり,北周の武帝のとき,道士張賓(ちょうひん)ら数名の道士は仏経を改作して1,000余巻を得たという。廃仏後も道経の増修が行われ,上記王延の三洞経典の集成があり,武帝自らも道経を集め,道蔵類書とも称すべき『無上秘要』を通道観で編纂した。この書は,道教の教義・儀礼を国家道教にふさわしいものに擬定して編集されたものである。こうして通道観の設置は,王朝の体制に順応した仏・道両教の改革を意図したものであった。道蔵の編集とともに,道教教団で行われる各種の儀礼も定まってきた。
(1/2:続く)
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