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●東京 とうきょう

アジア 日本 AD 

 明治以来の日本の首都の名称。京都に対し東京。1868年(慶応4)3月,幕府の江戸城無血開城で,江戸を手中に収めた明治国家は,7月東京と改称,東京府を開設。翌1869年(明治2)江戸城を皇城のち1888年(明治21)に宮城と改め,天皇を1869年に迎えた太政官を京都より移し,人口が急激に増大している。しかし当初は東京は東亰と書かれ,トウケイと呼んで,トウキョウと呼んでいないといわれる。東亰は,昭和になっても丸の内の郵便局名などにも使われている。

【武都江戸と東京】武都江戸は天下の総城下町,家臣と職人や商人の町であった。明治の東京は,その伝統の上に首都性を受け継ぎ,近代になって地域的・社会的移動の自由が認められることによって,一国の首都メトロポリスであっても,中央・地方の政庁都市となり,かつ大工業都市・小工業都市という複合マンモス都市でありえている。ただ江戸は武士の都であとは補助にすぎなかったのに比べると,東京は商人・職人中心の町となり,江戸が130万都市(天保)であったのが,1871年(明治4)には50万に満たない人口しかなくなっている。

【一国の首都東京】東京が江戸と同様,諸国入混みの地となり,下男下女が多く,雇入請宿(桂庵)のごときものの多く,行商の数の多いところで,窮民の業としての辻芸人・物貰の多いところとなったのは,江戸が東京になって十数年経ってからである。それは上野戦争その他による内戦の廃墟から立ち直り,武家屋敷が放置されたあとが,文明開化・殖産興業の中心となったのは,明治10年代である。そして人口も170万くらいの都市計画を立て,都市市区改正をしたのは芳川顕正で1884年ごろのことである。それが成功し,東京の人口が増大しはじめている。幸田露伴は『一国の首都』(明治32)において,都市改造の空気のなかで愛市愛郷の一念にもとづいて東京のあるべき姿を打ち出している。その評価の作はその「長語」「瀾語」となっている。露伴は,(1)東京を野の市たらしむべからず。(2)東京を漫然たる人間の集会処たらしむべからず。(3)旧江戸人は萎縮しすぎ,新東京人は自己中心すぎる。(4)東京を日本の東京とすべき。(5)東京を世界の東京とすべきである。そのためには市の内外の区画をはっきりさせ,都を都たらしめ,都外をつくる。排水設計をはっきりさせ神祠を森巌ならしめ,風俗改良をし田園・村落などを維持すべきである。無計画でなく,計画性のある公共投資を必要とし,不衛生不潔な都市を改造すべきことを説いている。こうした発言は,東京が独身者の多い自然発生的な村結合の上にたつ大村落都市であった。

【人口急増の東京】200万の人口を超えたのは明治末年。1920年(大正9)第1回国勢調査では217万人(旧市内)。最初,旧奉行管轄地に大区小区制を施行しているが,1878年に15区に再編し,1889年にこの15区が東京市となり,1893年三多摩地方が神奈川県から東京府へ編入している。現在の東京都の区画が確立した。1923年関東大震災で被災人口は150万に及んで,大半が廃墟となったが,これを復興させる意欲は強く,1930年(昭和5)には復興完成となり,1932年には35区となり,1943年東京都制をしき,戦後1947年,地方自治法にもとづき,地方公共団体となり,特別区35区より22区に統合し,戦後一時300万人であったものが1955年に再建がすすみ,戦前の最高水準を超え以後高度経済成長による人口集中は加速化し,ついに1,000万都市となっている(1962年ごろ)。そうした発展のなかで,東京駅中心の東京は,関東大震災ののち新宿を発展させるなかで副都心化している。1960年代東京オリンピック開催を機に,地下鉄網の整備が進み,東京への自己同一化が進み,それと同時に地下街のカプセル化も進み,東京の昔の姿が消え,日本橋界隈の消滅がみられる。それに接しながら都心を守ろうとする東京人気質の人がいる。これは私的自由主義でなく私生活型合理主義のみでなく,東京を守る人々である。都永年居住者が存外こうした人々の心意気に支えられている。

〔参考文献〕樺山紘一・奥田道夫『都市文化』1984,有斐閣