●東学党の乱 とうがくとうのらん
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1894年(高宗31)東学党が中心になっておこした農民反乱。李朝時代は後期になって政治の紊乱,貪官・汚吏の不道徳,税金の過重などで農民ははなはだしい苦痛を受けるようになり,とくに外国勢力の浸透で国家の危機が加重される反面,農村の人的階層の変動に伴い農民の社会意識が急速に発展するなど複雑な情勢をなしていた。このような現実のもとで,農民たちのあいだには漠然としてではあるが,外国の侵略を退けて政府の改革を要求する風潮が芽生えるようになった。新興宗教東学はこのような情勢を背景として急速に発展,単純な宗教的領域を超えて農民の思想的支柱となり,社会改革・外国勢力の排斥を標榜する政治的勢力として忠清・慶尚・全羅道に伝播した。広範な民衆の結集に成功した東学は当時「惑世誣民」の罪で処刑された教主崔済愚の伸冤運動を展開した。1892年(高宗29)12月第2代教主崔時亭の通文によって全羅道参礼都会所に集まった数千人の教徒は,陳情書をもって東学弾圧の不当を訴えた。当局は暴動も恐れて東学教徒の弾圧も禁じる関文を発表した。これに気勢をあげた教徒は再び全国に通文を回して教主の指揮下に中央政府への教主伸冤の陳情を決議,1893年(高宗30)1月陳情書を政府に送り,再び3月には40余名が都にあがって伸冤運動を展開した。あわてた朝廷は戸曹参判魚允中を両湖宣撫使として送り懐柔させると同時に,壮衛営領兵官洪啓薫に軍隊を与えて清州に進駐させ,秘密裡に清の袁世凱に救援を要請した。一方東学教徒は伸冤運動の失敗に不満を抱き,4月26日全国の教徒を忠清道報恩に招集,「斥倭洋倡義」の5字を書いた旗を掲げて2万余人の群衆が気勢をあげた。しかし漁允中の懐柔によりいったん解散,一時事態は収拾されたが,翌年本格的な反乱に拡大した。当時の全羅道古阜郡守趙秉甲は赴任するとバンコクフク※注1※(堤)の水税を初め荒地説税,建碑税などの不当税金を徴収して着服した。これに憤激した農民は,1893年(高宗30)12月と翌年1月の2回にわたって郡主に是正を陳情したが,逮捕または追放された。こうして1,000余人の農民は1894年(高宗31)2月15日官衙を襲撃,税米を貧民に分配,貯水地を破壊して解散した。按覈使李容泰はこのとき蜂起した農民を東学教徒として弾圧したので,再び憤激した農民は4月下旬「輔国安民」を叫び,白山に進撃,付近の数千人の農民の呼応を得た。こうして農民軍の規律と態勢を厳格にし,滅盡権貪・逐滅洋倭などの4大綱領を発表した。このときの蜂起は東学と直接的関係はなかったが,農民の組織は東学の組織を利用し,その指導層には東学教徒が多かった。農民軍は5月11日全州からきた1,000余人の官軍と禄負商軍を撃破し,茂長・霊光に進撃,貪官・汚吏を追放した。あわてた政府は洪啓薫を両湖招討使に任命,1,000余人の軍士を郡山に上陸させ,さらに500余人を増員し,法聖浦に上陸させたが,反乱軍に破られ,反乱軍は5月31日全州を占領。6月8日,清の援軍が牙山湾に到着,つづいて日本政府も居留民保護を口実に清への対抗上6月7日出兵を決定した。そこで政府は険悪な情勢が生まれることを予測し,すみやかに東学軍を懐柔して解散させる必要を感じて休戦交渉を始め,全州で講和を締結した。その内容は庶政刷新,貪官・汚吏の粛正などの12条項であった。講和後,東学軍は彼らの組織を各地で拡大,全羅道53郡には執綱所を設置,弊政改革に着手した。しかし政府は講和条件を履行せず,日本軍も6月9日から1万人の軍隊で仁川に上陸,王宮を占領して7月26日,日清戦争をひきおこした。東学軍は参礼会議を開いた結果,過激派は崔時亭らの穏健派の妥協論を拒否して北上,再び全国的反乱に拡大した。20万人の東学軍は公州で官軍と日本軍の連合軍と対決,激戦・奪闘したが,日本軍に敗北して退却した。〔参考文献〕朴宗根『東学と1894年(甲午)の農民戦争について』歴史学研究269,1960
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