●東海道線全通 どうかいどうせんぜんつう
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東京−神戸間の全長約589kmの国鉄線で,東京・横浜・名古屋・京都・大阪・神戸の6大都市を結ぶわが国の重要な鉄道幹線の一つである。また鶴見−横浜港間・大垣−美濃赤坂間・吹田−梅田間等の多くの貨物支線があり,これらを含めるとその総営業キロは約728kmになる。さて,鉄道の建設には高度の技術と多額の資金・資材が必要である。明治初年の日本にとり,これらを満たすのは容易なことではなく,日本の独力では到底不可能であった。このため外国の援助に頼ることとなり,イギリスから資金援助を受け,またエドモンド=モレル建設技師長以下のイギリス人技術者および資材が導入された。そして1870年(明治3),新橋−横浜間の測量が始まった。つづいて工事に着手したが,沿線の住民の反対や馬子・車夫・駕籠屋などの妨害にあったり,また軍の用地を通ることで横槍が入るなど順調には進まなかった。しかし,1872年(明治5)9月12日に,品川―横浜間が開通し,仮営業を開始した。まもなく,新橋―品川間の工事を完了し,同年10月14日,全線29kmが開通,明治天皇の行幸を仰いで開業式が行われたのである。こうしてわが国最初の鉄道が,新橋(現在の汐留駅)―横浜(現在の桜木町駅)間に開通した。全線29kmを,平均速力30kmで53分かけて走り,そのとき使われた機関車はイギリスから輸入したもので,ブレーキは機関車だけにある手ブレーキであり,また10両あったが名前がなく,1号・3号というように番号で呼んでいた。現在残っているのは,交通博物館の1号機関車と,青梅鉄道公園にある3号機関車だけである。さらにこのころは汽車ということばは使われずに,陸地を走る蒸気車という意味で,陸(おか)蒸気と呼ばれた。鉄道建設が行われ,実際に列車が動き始めたわけであるが,営業から運転に至るまですべてイギリス人が担当し,日本人は手を出す余地さえなかった。とくに列車ダイヤの作成は日本人にはなかなか理解できず,そのために技術者養成に力が注がれたのである。一方明治政府は,当時財政難に苦しみながらも,鉄道建設を強力に推進していった。東海道線の建設は東西両端から進められ新橋−横浜間ののち,1874年(明治7)には大阪―神戸間,1877年には大阪―京都間と相次いで開通した。また1880年には日本で初めて鉄道公債が募集され,募集金額は1,000万円にのぼり,そのうちの一部の交付を受けて,同年には京都−大津間が開通した。さて東西を結ぶ経路については,東海道・中山道のいずれをとるかが容易に決まらず,また財政難もあって工事は停滞した。しかし,鉄道頭・鉄道局長を歴任した井上勝の努力で工事は進み,1883年には中山道鉄道公債条例も公布され,本格的な幹線建設が軌道に乗った。ところが,1886年に至り,工事の困難・完成期の遅延・工費の高額といった理由により,にわかに東海道に路線は変更され,1890年に開かれる第1回帝国議会に間に合わすべく,急ぎ工事が進められた。そして,1889年(明治23)7月1日,新橋−神戸間が全通したのである。所要時間は20時間8分。これは,車軸と軸受けが完全ではなく,発熱のおそれがあったために各駅の停車時間が長かったからである。また料金は上等11円28銭,下等3円76銭であった。この間技術も向上し,1876年には台車・台枠こそ輸入品を使ったが,車体は国産である客車が完成,1879年には日本人初の機関士も登場,1880年には日本人のみの手で全長683mの逢坂山トンネルを貫通させた。全通後もこの線は重要幹線として逐年整備・増強が続けられ,1913年(大正2)8月1日には全線複線化,翌年12月8日東京駅が開業してこの線の起点となり,1934年(昭和9)には16年の歳月を費やして丹那トンネルが開通し,従来の急勾配の御殿場経由より著しく改善され,1956年11月19日には全線の電化が完成した。また“つばめ”“こだま”の特急も走り所要時間を短縮したが,輸送量は限界に達し,1964年10月1日新幹線が新大阪−東京間に別線として開通した。