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●東海道五十三次 とうかいどうごじゅうさんつぎ

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 東海道は一般には江戸から京までのあいだをさすことが多く,権威あるとされる概説書にも,そのように記されているものが多いが,『道中方覚書』そのほか幕府の手になる根本史料によれば,京に近い大津(近江)から延長して大坂まで,伏見・淀・枚方・守口と,大坂の八軒屋浜に達するまでのあいだを東海道とし,道中奉行から発せられた宿次の通達にも品川宿より守口宿までと明記されている。ただし,五十三次という場合は,江戸から京までのあいだに設置された53カ所の宿駅をさし,この呼称が一般化して使われていた。宿名を江戸から順に記すと,江戸の傅(伝)馬町を起点に,品川・川崎・神奈川・保土ケ谷・戸塚・藤沢・平塚・大磯・小田原・箱根・三島・沼津・原・吉原・蒲原(かんばら)・由比・興津(おきつ)・江尻・府中(静岡)・鞠子・岡部・藤枝・島田・金谷・日坂(にっさか)・掛川・袋井・見付・浜松・舞坂・新居・白須賀・二川(ふたかわ)・吉田(豊橋)・御油(ごゆ)・赤坂・藤川・岡崎・知鯉鮒(ちりふ)(今知立)・鳴海・熱田・桑名・四日市・石薬師・庄野・亀山・関・坂下・土山・水口(みなくち)・石部・草津・大津そして京三条に至るあいだの53個の宿駅が,いわゆる五十三次である。児玉幸多は,東海道の宿駅は1606年(慶長6)または,1633年(寛永10)までに設置を終わったとしている。五十三“次”とは馬や人足を使う場合,同ご馬・人足を使って通行するのではなく,宿ごとに駅伝式に,馬・人足を替えなくてはならぬ規定があったからである。いわゆる通し旅行は禁止されていたのである。東海道では幕府の定めに従い,各宿ごとに人足100人・馬100頭を常備すべき規定であった。のちには囲(かこい)人馬と称し人・馬ともにそれぞれ20人,20頭近くを減らすようになり,この分を助郷に転嫁するようになった。中山道筋の宿はその半分の50人・50頭,同じ五海道とはいえ,残る甲州道中日光道中奥州道中の3者はさらにその半数の25人・25頭が定数であった。この差は幕府の出す切手(通行証)を与えられた公用に要する人馬数の実状を考慮したものと解される。五十三次各宿間の距離は相当の開きがあり,長いほうでは四里(16km)あるいはこれを少し超すもの(小田原―箱根間),短い場合は半里(2km)に満たない区間(御油−赤坂間)などがある。これは街道筋の地形的な状況や街道筋の集落の密集度の違いなどが大きく働き,等距離(平均すると2〜3里(10kmくらい))に設定できなかったのであろう。川幅約1kmながら季節により流水量が著しく変化し,通行禁止期間いわゆる“川止め”のたびたびおこる島田・金谷間は2kmであった。また急峻な箱根山中などほとんど人家(部落)の乏しい所は宿を設けにくかった。かつて未開発の荒野であった岡崎・知鯉鮒間も同様であった。宿駅の規模は東海道筋でさえ大小さまざまで港町で宿を兼ねたもの(大津・桑名・熱田では大津が人口2万人を数え,宿駅機能は人口の一部であった),城下町を兼ねたものは,西から水口・亀山・桑名・岡崎・浜松・府中(静岡)・沼津・小田原などがあり,人口が1万人を超えるものも少なくないのは当然である。小宿は山麓・山間などの地に設けられたものが多く,鈴鹿山脈東麓の「坂下」のように戸数200未満の宿駅もあった。庄野・石薬師もこれに近く,白須賀・箱根も200戸内外であった。幕末天保年間(1830〜1843)に幕府の編纂した『宿村大概帳』などをみれば,各宿の規模の大小は明瞭である。大概帳には,各宿の石高・人口・家数・本陣・脇本陣の数とそれぞれの建物の規模,街道筋の村々の名と石高,地子免許の宿ごとの坪数,次宿までの人馬賃銭などが詳記されている。五十三次各宿の基本的特徴はどの宿駅にも本陣(公卿・大名を初め高官の泊る特別の旅宿)があったことである。本陣は門構を備え,上等の部屋があり,建坪百数十坪から400坪近くと大小はあるが,建替えに際してはその宿の領主や常宿としている大名の援助を受け,また本陣職のほかに材木商などを行って家を維持している場合も少なくなかった。本陣職はその宿の由緒ある名家に命じられた場合が多く,箱根の石田本陣(現博物館)はその代表例である。脇本陣は本陣につぐ規模で1宿に宿泊者が立て込んだ場合に用いられる。本陣と並んで問屋も,宿の機能を果たす中心的存在だった。これも有力名門家の場合が多く幕府の発給証をもつ人馬の差配を任務とした。一般旅行者は旅籠(はたご)を利用したが参勤交代の大々名の通行(1,000人以上)の場合には一般旅籠はもちろん一般の人家も徴発されて臨時に使われた。草津宿本陣の記録(諸家様御休泊覚帳)にみる限り,紀州藩,尾張藩などの大名行列が最多で1,000人を越すことが多かった。本陣には木版刷の間取図が保存されている。大名一行の先触役人に手渡して宿割りをさせるための用意であり,また長い巻物状に,町並みの1戸ごとの間取の広さと職業を記した絵図が残っている。これも大名通行の「宿割り」に備えたものであるが,種々の商人・職人(髪結いなど)にまじって相当数の農家が存在する。これは宿常備の馬の飼育は彼ら宿居住の農民の果たすべき義務であったからであり,さらに家ごとに馬役・歩行役と,大名通行の際の役割も記されている。東海道では多くの宿に飯盛女(正式には食売女と記されている)が置かれ,旅人の慰安施設となっていた。幕末近くのシーボルトの旅行記にも,御油・赤坂では数百人以上の人数で彼女達が一行の行列をのぞき見ていたことが特記されている。当時の実状をうかがえる資料である。同じ五十三次の宿駅でも,それぞれの繁栄度や家数の規模などに相当の開きがあったのは,宿駅の位置・状態によっている。泊る必要のあった宿駅と休息・昼食程度で済ませて宿泊せずに通過してしまうことの多い宿とでは規模は当然異なる。また人・馬による,1日の行程と宿間距離との関係や,上述した慰安施設の状態,地形などが,同じ五十三次とはいえ,繁昌と不繁昌,大宿場と小宿場とを生じさせた主な理由であろう。なお,弥次喜多の旅行記文学は五十三次の最も栄えた時期の描写であろう。

〔参考文献〕児玉幸多『交通史』体系日本史叢書24,山川出版社