●東海道 とうかいどう
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1716年(享保1)江戸幕府は“五街道”のうち,東海道は海辺を通るから海道でよいが,他の4街道はそうでなく,中山道は東山道のうちの中筋の道であって,古来東山道などと呼んでいたから,“中仙”は適当でない,“仙”を改めて“山”の字を使用するようにとの達しを行っている。東海道は古く平安期からすでに最も重要な街道として知られ,延喜式にも,その駅名や常備人馬の定数が明記されており,のちに関東の中心ともなった鎌倉を越え,さらに東北の国々にまで延長された道路と駅名が明記されている。それらの駅名のなかには,今日ほぼ正確に位置を特定できるものも大変多く,駅の長者(駅の経営者であったその地方の有力豪族)の名の知られているものも少なくはない。駅々での遊女の存在も知られ,交通量でみる限り相当繁栄していた状態を察することができる。当時の紀行文学においても,その様子が推測される。【宿の整備】鎌倉に武家政権の覇府が移ってのちは,鎌倉が後世の江戸の地位に取って代わり,鎌倉が東国の中心府となったが,東海道の重要性は増すばかりであった。室町の中期以降,戦国の世のきざしとともに各地の守護中の有力者は戦国大名へとその勢力圏を拡大し,その分国圏内の海道筋の道路は諸種の物資,軍勢の移動の必要などの理由から整備され,のちに北条氏,今川氏,武田氏,上杉氏,ついで織田氏などの勢力圏に入る地域は一応の整備が完成していた。当時設置された宿駅で,江戸期の宿駅にそのまま引き継がれたものの少なくないことは,旧今川領内の駿河・遠江・三河の徳川・織田氏による尾張・美濃・近江,甲州路・木曽路(のち甲州道中・中山道)における武田氏の手になった事業などによってひろく知られているところである。豊臣政権によるひととおりの整備はされていてもその小田原攻略に,十余万人の大軍を動かし得たのは東海道筋をはじめとする主要街道筋の整備ゆえであろう。それなくしては,とうてい考え及ばぬことである。江戸幕府は幕藩体制の形成と維持のため,戦国大名のそれぞれの分国中心主義の交通系統を改め,江戸中心の五街道を軸とする陸上交通路網の改編を完成し,自らも三河以来の伝馬制を拡充して関東諸国から全国的なものに拡充・整備させた。ことに1635年(寛永12)の参勤交代制の確立以後は,宿駅制度の完備などをもって充実させた。五街道の筆頭的地位にある東海道は,江戸から京までにとどまらず,京の東側手前にあたる山科から伏見に出て,淀・枚方・守口を経て大坂までをいい,五十三次にさらに4宿を加えて57宿と呼ぶべきである(「道中方覚書」による)。
【宿の制度】東海道筋はほかの4街道,中山・甲州・日光・奥州のそれそれに比べて大名そのほかの通行量が多く,その負担も,人・馬使用のいわば公定価格ともいうべき御定賃金があった。「御朱印御証文」を帯する幕府の公用には無賃の人馬を提供しなければならず,ひとかたならぬ宿の出費を強いられる立場にあったゆえか,品川以下箱根宿を除いて守口までの各宿とも地子免許地であった。熱田(神宮)は免許地でない代わり,地子代米20石が毎年与えられている。地子免許地はそれぞれ7,000〜8,000坪(1万石まで認められていた。三島・嶋田・金谷・浜松・新居・岡崎・水口などは3,4万石と多いが,これは渡船などで特別多く無地子地が許されたためで例外と解すべきであろう。各宿の問屋場は荷物・人馬の逓送を扱う宿の中心機能を担当する最も重要な機関であった。また,直接仕事にあたる帳付馬指は常置の職であり,宿民中から臨時的・兼務的に勤める役もあった。「民間省要」の著者田中丘隅は初め東海道川崎宿の宿役人であっただけに,その著書中にみえる宿駅助郷論の部分は最も精彩を放っている。
【宿の経済】宿の収入は幕府からの貸付金,規定の人馬賃銭のなかの刎銭(借り上げる側と貸す側のあいだで人・馬の料金を相封(相談)できめる場合,問屋が仲介して一部を宿の収入とした。あるいは口銭)などが主であったが,時代とともに宿の困窮度は増した。御定賃金の安さ(相対の場合の約半分が普通)と御朱印御証文を利用する無賃の公用の増加などが原因である。幕末近くになるとこの累積赤字は爆発的ともいえるほど増大し,幕府の管理する宿駅制度は当然破綻した。
【交通量】五街道中,東海道の交通量は正確には測りがたいが,各街道筋の本陣の留帳などから推測すると(一般庶民の宿泊人数も大名のそれと同様に多いと類推すると),少なくとも他の諸街道の3倍以上であった。幕府は,参勤交代に際し,東海道を通行すべき大名,中山・東海のいずれの街道を通行してもよいとした大名の名前を一応定めてはいるが,東海道筋の混雑を避けて中山道をあえて通り,江戸に入る者を禁止する令をたびたび達しているのは東海道の雑踏の一面を示している。前述した各宿の地子免許の面積も,東海道以外では著しく少ない。それでも中山道では「地子免許無之」と記す宿は半ば以上に達したが,日光道中には1万坪以下が多く,甲州道中にはほとんどなかった。奥州道中では「無之」が6宿,「領主より地子除」が4宿みられるに過ぎない。幕府の道中奉行からみた重要度の差,あるいは事実としての交通量の多寡を察する一資料であろう。江戸後半期にみられる伊勢参詣を口実とする一般旅行者の増加,あるいは“お蔭参り”の爆発的盛行などは武家本位に計画・設置された東海道各宿の旅籠,食売女旅籠(あいまいやど)の著しい増加と繁栄をもたらした。