●統一令 とういつれい
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イギリス国教会成立以後,中央で作成された祈祷書が国内の全教会で使用されることを指示した法令。前後4回にわたって発布された。(1)1549年1月に議会を通過した法令。エドワード6世の治世が始まると摂政のサマセット公(エドワード=シーモア)とトマス=クランマーは改革の推進を決意,その現れが後者による祈祷書作成である。議会の承認を得ると同時に統一令をもって教会におけるその使用が強制され,違反者には罰則が適用された。ここにおいて数世紀にわたり維持されてきた礼拝の方式に,変化が強いられることとなる。(2)その後クランマーはより急進的な改革を望むようになり,大陸の改革者の助言を得て,1552年11月に第2祈祷書を公刊,第2統一令の制定がこれに伴った。罰則は前法よりも厳しくなり,新祈祷書に含まれていない礼拝に出席した俗人は投獄されることとされた。だがツヴィングリの影響が濃厚とされる祈祷書を強権をもって実施するには無理があったと考えられる。(3)エリザベスの治世が始まると先の第2祈祷書を少し修正した祈祷書ができ上がり,1559年4月末に議会で可決された統一令によって公布された。即位後最初の議会では首長令のみの成立をはかるというのが女王の素志であったが,庶民院内改革派の熱意がすさまじく,枢密院内にも共鳴者がおり,また貴族院における主教(メアリー1世の任命による)たちに対抗するには彼らの協力が必要とされたので,統一令の制定にまで至ったのである。また女王が本来復活を欲するのは1549年の祈祷書であったらしいが,同様の事情から思うとおりにいかなかった。(4)王制復古後国教会の再建に伴い“クラレンドン法典”に属する第2法令(1662年8月に騎士議会で決められた統一令)によって改訂祈祷書の使用が義務づけられた。本法の実施により約2,000人が聖職者の地位より追放され,国教徒とそうでないものとの別を際立たせた。ただし新教的非国教徒の大部分は1589年の寛容法により,また旧教徒は1791年と1829年の議会制定法によって救済された。