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●東夷 とうい

アジア 中華人民共和国 AD 

あずまのひな。中国の中華思想にもとづく呼称で、東方に住む化外の民をさす。東夷・南蛮・西戒、北狄の一つ。中国からすれば、倭国も東夷の一つであり、「東夷伝」に含まれて記載されていた。『神皇正統紀』には、〈日本は九夷の其一なるべし。異国には此国をば東夷とす〉と述べている。ただ、日本も律令体制を整え、中国をモデルとする中央集権国家が完成すると、自らも中華意識をもち、日本の東北部の化外人を蝦夷(えみし)と称し、また東夷と呼んだ。

『景行紀』には、〈東夷の中に、日高見(ひだかみ)の国あり。其の国の人、男女並びに椎結(かみらわ)け身を交(もとせ)いて、人となり勇み悍(こわ)し。是れ総べて蝦夷という〉と記している。また、〈東夷、多に叛きて、辺境騒ぎ動(どよ)む〉とあるが、これは明らかに〈蝦夷悉く叛きて屡(しばしば)人民を略(かす)む〉とある文章に、照応している。律令の規定では、「夷人雑類(いじんぞうるい)」のカテゴリーに入れられ、華夏、つまり中華と異なる取扱いをされる人々であった(賦役会義解)。『景行紀』には、〈東夷は、識性、暴(あら)び強し。凌犯を宗とす。村に長(ひとこのみみ)無く、邑に首(おびと)なし。各、境界を貧りて、並びに相盗略む。また山に邪(あ)しき神あり。郊に姦しき鬼あり。衢(ちまた)に遮(さいぎ)り径(みち)を塞(ふさ)ぐ。父子別無し。冬は穴に宿(ね)、夏は樔(す)に住む。毛を衣(し)き、血を飲むみて、昆弟相疑う。山に登ること飛ぶ禽(とり)の如く、草を行(はし)ること走(こ)ぐる獣の如し。恩を承けては忘る。怨を見てば必ず報ゆ。是を以って、箭を頭髻(たぶさ)に藏(かく)し、刀を衣の中に佩く。或は党類を聚めて、辺堺を犯す。或は農桑を伺いて人民を略む。撃てば隠る。追えば山に入る。故、徃古より以来、未だ王化に染(したが)わず〉と東夷の性格や生活状態を述べているが、当時の東夷観が如実に示されている。このような蔑視感から蝦夷のごとく動物名を付して呼び、また毛人などとも称したのである。その蝦夷が、ほぼ服属されるようになった平安朝ごろになると、中央の公卿らは、東国地方に住む武士をあざけりの意味を含めて、“東夷”と呼ぶようになった。

 『平家物語』の巻11に、平家が壇の浦で大敗し、多くの人々が源氏の手によって捕えられた時、〈国母、官女、東夷西戎の手に随い臣下卿相(けいしょう)は、数万の軍旅に捕われて、旧里へ帰り給いしに、或は朱買臣が錦を着ざるを歎き、或は王昭君が胡国に赴き恨みも、これに過ぎじと見えし〉とある。この東夷は関東の武士国を従えた義経軍をさすものであろう。『太平記』の一節にも、後醍醐天皇が、北条氏を倒すことを決意の様を〈東夷ヲ亡サバヤト、常ニ叡慮ヲ回サレシカド、或ハ勢徴ニシテ叶ワズ〉と記している。これらは、東国武士団のあらあらしさの前にしだいに政治権力も奪われなすすべもなかった貴族階級が、昔ながらの誇りだけをたよりに、おそれをこめて蔑みしたことばであったろう。

 頼山陽が『日本外史』の正成挙兵の段に、〈東夷勇有り智なし。如(も)し勇を較ぶれば、六十州の兵を挙ぐるも、以つて武蔵、相模に当るに足らず。智において較ぶるや、則ち臣、策有り〉と書くのは、『太平記』などをうけて書いたものであろう。江戸時代に入ると、以上のような“東夷”の意味はすでに失われたが、洒落て、江戸の東南にあった深川の遊里を指して“東夷”と呼んだとみえる。これは吉原が北狄、新宿が西戎、品川の南蛮に対する呼称である。


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