●唐 とう
アジア 中華人民共和国 AD618 唐
618〜907 中国の隋につづく統一王朝。帝室李氏。国都は長安(陝西省西安市)。唐は北朝北魏の東西分裂後の西魏・北周・隋の系譜上にある王朝である。270年に及ぶ南北の大分裂を久々に統一した隋は,中央集権体制の確立に性急で,大運河・長城・都城の建設などにおびただしい徴発と誅求を行い,さらに高句麗遠征での大量動員と膨大な物資徴発とその運搬によって,連河地帯を中心に激しい反乱がおこった。中国有史以来の規模と称される隋末の大反乱で多数の群雄が割拠し,その結果,隋はわずか30年で滅亡する。200を数える群雄の一人に唐公李淵がおり,晋陽(太原)で挙兵して一気に南下して長安を陥し,618年に帝位につく。これが唐の高祖である。しかし,この時点では唐は長安を中心とする一群雄の域を出ず,他の群雄を平定して統一を完成するのは10年後の2代太宗の628年(貞観2)のことである。唐室李氏は,北周帝室宇文氏,隋帝室楊氏と数代にわたる密接な婚姻関係で結ばれており,元来北族色の強い同一の新興貴族集団(関隴貴族)に属しており,唐初の政権中枢も彼ら関隴貴族が過半を占めていた。すなわち,唐は北朝系の北周・隋と基本的に同じ性格の王朝であった。短命に終わった隋の統一をうけ,それを完成するのが唐であったといえる。10年にわたる全国平定に卓越した功績をあげた高祖の次男李世民は,626年(武徳9)兄の皇太子李建成と弟の斉王之吉をクーデターで倒して帝位につく(玄武門の変)。太宗である。太宗の治世は「貞観の治」と称され,日本でも名君による太平の世の最たるものとして模範とされてきたが,やや誇張があるようである。唐初には,南北朝以来の門閥貴族が依然として大きな勢力をもっていた。最も古い伝統をもつ山東貴族は,隋末の大動乱で大きな打撃を受けたにもかかわらず,社会的名望はなおきわめて高かった。太宗は帝室李氏を含めて政治的主流である関隴貴族の名望が山東貴族の下位にあることから,氏族志の編纂を命じて帝室李氏を最高位とする貴族の家格等級の組み替えを行わせた。これは貴族制の否定ではなく,あくまでも上からの再編であり,唐代を通じて下降傾向は示しながらも貴族制は存続する。貴族制が消滅するのは黄巣の乱を経た唐末五代の時期である。唐の統治の基本は,この時期に整備されて体系化が完成した律令制である。唐のあらゆる国家運営は律令にもとづくといって過言ではない。三省(中書・門下・尚書)と六部(吏・戸・礼・兵・刑・工)を頂点とした整然たる中央官制と,全国を10道・300余州・1,500余県に区分した中央集権的地方行政制度は,官品令・職員令・考課令などで規定される。官吏任用の科挙(貢挙)は,選挙令・学令で規定される。ただし,唐前期の官吏はその過半が任子(官蔭)によるものである。府兵制は宮衛令・軍防令で規定され,全国約600の折衝府で農民を府兵に徴発し,訓練を行って首都警備や辺境防衛に配属する。折衝府は全国にまんべんなく配置されたのではなく,首都圏を中心にきわめて偏在しており,江南にはほとんど置かれていない。つまり兵役義務の不均等という矛盾を本来的に内包するもので,折衝府所在の農民は負担過重から逃亡するものが多く,ひいては均田体制をもゆるがすことになる。均田制は田令の,租庸調制は賦役令の規定である。丁男への口分田80畝と永業田20畝の計100畝の給田,うち口分田は還受対象となる田で,永業田は対象外であるが,桑・棗・楡などを植樹することが義務づけられた。自給自足の農村社会の現状を反映したものである。給田に対して租庸調と雑徭という農業生産現物納付と労働力奉仕の義務が課される。口分田の給付は,敦煌や吐魯番という辺境の例ではあるが,規定よりはるかに少額であったことが明らかにされている。それに対して租庸調と雑徭の負担義務は厳密に課された。このことから,唐の均田制がどの程度実質的に行われたか議論の分かれるところである。均田制・租庸調制・府兵制など人民支配の基礎となる規定が戸令である。農民は百戸を里,五里を郷とする郷里制と四家五家の隣保制に編成され,戸籍の作成・徴税・郷村秩序の維持など,こと細かく規定されている。令にはこのほか,祠令・衣服令・儀制令・鹵簿令・公式令・倉庫令・厩牧令・関市令・医疾令・獄官令・営繕令・喪葬令・雑令がある。唐はこれら諸制度を整備して国家の基礎を固め,太宗・高宗期に対外的にも大いに発展する。モンゴル高原の東突厥・薜延陀・ウイグルを制圧し,青海の吐谷渾・党項(タングート)をくだしてチベット高原の吐蕃を破り,西域オアシス諸国を抑えるとともに,中央アジアのイリ地方の西突厥を撃破して西域交通路(シルクロード)を確保した。東方では新羅を援けて高句麗・百済を滅ぼし,南はヴェトナム北部を領域に加え,多数の南海諸国が朝貢することになった。これらの地に安東・安北・単于・北庭・安西・安南の6都護府を置いて800余の羈縻州を統轄した。この羈縻支配による世界帝国としてのひろがりは,高宗期をピークとして,唐文化の強烈な影響を受けた周辺諸民族の自立により,8世紀以降には,東北部の渤海,雲南の南詔の建国,東突厥の再興と,ついでそれにとって代ったウイグルの強勢,吐蕃の西北方面への侵入激化など,逆に守勢に転じることになる。令外の官たる節度使が北辺に設置されるのはまさにこの時期である。また国内的にも,元来理念と現実の乖離が小さくなかった律令体制の矛盾が顕在化してくる。土地所有の不均衡の進行により土地を失って流亡する農民が増加し,それは府兵制の維持をも困難にするものであった。このような時代背景のもとに,中国史上,空前絶後の女帝,則天武后が登場する。謀略で高宗の皇后になった武后は,唐初以来の政権中枢を占めてきた関隴貴族を中心とする伝統的貴族勢力を巧みに排除し,代わって新興地主層出身の科挙官僚を重用して自己の権力基盤とし,高宗の死後,ついに自ら帝位について国号を改めて周と号した。彼女の死後,中宗が復位するが,皇后韋氏とそのむすめ安楽公主,武后のむすめ太平公主ら女性を中心とする皇親勢力が政治に介入し,世に武韋の禍とけなされるが,少なくとも武周期は台頭期の庶人上層が政治参加する突破口となった時代であり,貴族支配崩壊の序章といえる。皇親の政治介入による混乱を刷新したのが玄宗で,その治世の開元・天宝期は唐の極盛期である。しかし,華やかな太平の世の裏では,すでに武周期にみられた社会矛盾がいっそう進行し,律令体制では対応しきれない政治的・社会的変化が顕著となってきた。その対応策が令外の官たる使職の新設である。観察使・度支使・塩鉄使・転運使・節度使などが主要な使職である。755年(天宝14・聖武1)安史の乱が勃発する。東北辺三節度使を兼任して強大な兵力をもつようになった安禄山と,40余の使職を帯びて中央で権勢を誇る楊国忠との,玄宗の私的・公的恩寵を争っての対立が爆発したものである。安禄山は洛陽・長安を陥し,玄宗は四川に蒙塵して退位せねばならなかった。反乱軍の内部抗争などで,763年(広徳1・順天4)に平定されるが,鎮圧策として乱中に内地節度使を要衝に続設し,乱平定後,降将らをその任につけた結果,中央の統制を離れた節度使割拠の端が開かれた。これら内地節度使は兵権のみならず監察使などを兼任して民政権・財政権をもあわせもつ軍閥と化し(藩鎮),中央に対する反乱をおこすことも少なくなかった。9世紀初めの憲宗期に反抗的藩鎮の抑圧にある程度成功し,中央集権が一時回復される。そして藩鎮兵力を削減し,780年(建中1)施行の両税法を一部改訂して財政面からもその統制強化がはかられた。安史の乱を経て均田体制は破綻的様相を示し始める。すでに府兵制は崩壊して,節度使らの兵力はすべて傭兵からなり,それだけでも財政負担が大きいのに,乱平定のための膨大な軍費は通常の税収ではとうていまかなうことは不可能であった。そこで原価に数倍する塩税を上乗せした塩の専売が開始される。また,さまざまな非租庸調的付加税が課されて農民の階層分化がすすんだ。均等な土地所有を理念的前提とする均田小農民に対する租庸調収取は不可能な段階に達していた。かくて,丁単位の均等賦課の方式を放棄して,戸単位・資産対応の賦課に改め,各種付加税を夏秋の麦と粟・稲の両収穫期に一本化する両税法が780年(建中1)に全国施行される。両税法の実施は均田体制の事実上の否定で,現に進行している大土地所有は法的規制がなくなっていっそう進展し,多数の没落農民を佃戸として抱えこみ,それまでの貴族の荘園にとって代わっていく。憲宗期の藩鎮抑圧は節度使の世襲を認めず,中央から高級官僚を送り込む策をとった。これら天下り節度使は中央への栄転のみを求め,兵士・農民,さらには土豪・地主・富商に対して収奪を強め,財物を進奉と称して中央に送付することにつとめた。そのため,9世紀後半以降には,それまでの藩鎮ぐるみの反乱とは異なり,傭兵による節度使追放といった兵乱や,土豪層をも巻き込んだ農民反乱が江南を中心に多発する。858年(大中12)の藩鎮での兵乱は,下級将校康全泰を指導者に土豪や富商まで参加したものであった。翌859年(大中13)に浙東でおこった裘甫の乱は大半が没落農民からなる農民反乱の性格を色濃く有するものであった。868年(咸通9),南詔の侵入対策として桂州へ南遣された武寧藩鎮兵士による兵乱は,多数の没落農民などを吸収して一大集団に成長した。これら諸反乱はいずれも鎮圧されはするが,残党が分散して群盗化し,抜本的な諸矛盾は解決されないままであった。かくて武寧藩鎮の北隣で,5年後に黄巣の大乱が勃発するのである。9世紀中ごろ以降の諸反乱は,唐朝が財政上の基盤とたのむ江南での収奪強化に伴う矛盾の爆発であった。中央官界では牛李の党争と呼ばれる貴族出身と科挙出身の官僚間での激しい派閥抗争が展開され,また神策軍など再建された禁軍を握った宦官による政治介入が強まった。12代穆宗以後の諸帝は,13代敬宗を除きすべて宦官が擁立したものである。唐朝中央の混乱と統治能力は低下の一途をたどり,870年代の広域な水災・蝗害・飢饉の連続は農村を疲弊の極に陥れた。さらに南方の南詔,西方の党項・ウイグル・吐谷渾の侵入がこれに加わる。このような情勢下に,875年(乾符2),黄巣の乱が勃発する。私塩販売を業とする黄巣は,配下に多数の無頼・亡命の徒などを抱えた組織をもち,それを基盤に蜂起する。そして没落農民を吸収しつつ大集団を形成し,四川を除くほぼ全国を流寇した。洛陽・長安も陥し,多数の貴族が殺害された。10年でようやく平定されるが,平定の主力は反乱軍降将・群盗上がりの部将・農民族首領・土豪出身の自衛集団首領などで,彼らはそのまま節度使として各地で自立していく。唐の皇帝は有力節度使の勢力下に置かれ,唐の貴族支配はこの乱によって事実上終焉した。朱温は反乱軍から唐にくだって全忠の名を賜い,宣武軍節度使に任じられ,その経済的に有利な立地を基礎に華北の諸勢力との抗争に勝利し,907年(天祐4)名実ともに唐を滅ぼして後梁を樹立した。わが国では中国を唐土(もろこし)といい,中国からの将来請物産を唐物(からもの)と総称するように,唐は中国の代名詞であり,典型的中国王朝で最も正統の中国文化を築いた時代であるという認識が一般的であるが,必ずしもそうではない。唐代には世界帝国への発展過程でさまざまな異質の文化を幅広く受容して,壮大な融合的文化を生み出した。長安に最も顕著なペルシア風その他多様な文化的エキゾチズム,外来宗教,遠く西アジアをも含めた周辺諸民族の多数の留学生,陸路・海路の東西交易に従事する外国人の居住と定住化,おもに部将として唐朝に仕官した多数の異民族出身者など,非中国的なものへの包容力の大きさ,換言すれば,排他性の強い中華意識が例外的に稀薄な点に唐代文化の基調があるといえる。しかし,多様な異質文化を受容しながら,それらが十分に咀嚼され,中国の伝統文化と完全に混一融合されたより高次の文化形態にまで昇華されたかという点に関しては否定的評価を与えざるを得ない。唐の世界帝国が崩壊して,周辺民族の自立と攻勢に対して受身の立場に置かれる後半期になって,一種の民族主義的な新思潮,韓愈・柳宗元らによって主張される伝統的古典への復帰。すなわち古文復興の運動が批判的精神のうえにたって新しい文化への道を切り開き,次の宋代になって完成されることになる。貴族の伝統的美意識に対し,後半に台頭してくる庶人層の新しいエネルギーが取って代わったものといえよう。さて,隋の短命の後をうけた唐初においては,南北の政治的統一だけでなく,文化的断絶をも埋める動きが顕著である。『晋書』『梁書』『陳書』『北斉書』『周書』『隋書』といった前数代の正史が太宗の勅命で編纂された。正統的学問たる儒学の統一解釈を意図した『五経正義』の編纂は,主として南朝系の注釈を採用したものではあるが,魏晋南北朝文化を総括した意義をもつ。同時に科挙のスムーズな実施に不可欠の統一解釈という政治的要請によるものである。ただ採用されなかった多くの旧注がそのために散佚して後世に伝わることなく,また解釈が固定化したために儒学研究の発展を阻害する結果となった。唐代文化の文学や芸術面に比して,儒学研究が非常に低調であった一因である。9世紀以後の韓愈らの古文復興運動によってようやく新しい批判的立場からの研究が芽ばえてくる。南北朝以来,ほぼ完全に中国に根づいた仏教は,唐代には教理研究が大いにすすみ,華厳宗・天台宗・法相宗・禅宗・浄土宗・真言宗など宗派仏教が成立した。法相宗を確立した玄奘が西域・インドから持ち帰った膨大なサンスクリット経典の漢訳は新訳と呼ばれ,教理研究の深化に大きな影響を与えた。唐室李氏は老子の後裔と称し,そのため唐一代を通じて道教は国家的保護を加えられた。南北朝以来の道教諸教義が,仏教教理を大幅に換骨奪胎して,より精緻に統合されるのも唐代である。漢史・唐詩・宋文・元曲といわれるように,唐代文化の華は詩であり,かつ中国の詩を代表するのが唐詩である。音韻上の厳密な規則に従う律詩や絶句という詩形式が完成されるのは唐代であり,唐詩のもつ優麗なリズムは歴代随一のものである。唐の詩人中の最高峰,李白と杜甫は二大詩聖としてその評価は今もってゆるぎない存在である。唐代の美術工芸は,近年の考古学上の新発見により,壁画や各種工芸品の豊富な実例を示してくれた。この分野は最もエキゾチシズムに満ち,意匠にはペルシア系のものが好んで用いられ,そのまま日本に招来されたものも少なくない。ただしこれら珍奇な美術工芸品はもっぱら貴族など上層の人々を対象としたものであり,彼らの美意識なり嗜好が反映したものと解すべきで,一般庶民層の好みとは距離があったことは当然である。唐代後半期は政治・経済・社会・文化の多様な局面で大きな変化が生じた,時代の転換の過渡期にあたる。「唐宋変革」が中国史上での重要な問題とされるように,唐から五代を経て宋代へは,中国史上の一大画期とみなされるが,古代から中世へという見解と,中世から近世へという見解の二つに分かれるところである。〔参考文献〕宮崎市定『大唐帝国』世界の歴史7,1974,河出書房新社
佐藤武敏『長安』世界史研究双書8,1971,近藤出版社
堀敏一『均田制の研究』1975,岩波書店
![]()