●問屋 といや
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とんやともいう。中世(鎌倉・室町時代において港湾や重要な都市に居住して物資の管理や仲継取引・貿易に従事した業者で,その語源は「津に問う」とか,唐の国の倉庫を意味する「邸」とか「津屋」とかいわれたものである。問丸の丸は「麿」からおこり,船につく丸号と同じ語源になっている。平安時代の末は淀や桂や木津の問男があった。荘園領主が旅行する際に船を準備したものである。鎌倉時代になると荘園の年貢米の陸揚地である,鳥羽・木津・坂本・敦賀などに問丸が居住し,倉庫をかまえて年貢米の保管,船舶の準備,宿所の提供などの業務に服するようになる。木津の問などは荘園領主から問給・問田を与えられる荘官類似のものになり,問職となる。しかし鎌倉期の末になると交通の要地の問丸は,その港湾を所有する特定領主に隷属してその用をたすだけでは満足せず,その港湾を利用するほかの領主の要求にも応じて収穫米の輸送管理を引き受け,やがて一方的な領主への隷属を脱して専門の物々仲介業者または運送業者として独立する。そして室町時代になると,商品の仲継取引にあたり,『庭訓往来』に「泊々之偏上,湊々之替織,浦々の問丸」とあるように,重要な港湾にはほとんど,例外なしに存在するようになる。問丸は宿泊もさせ,港町の自治を指導し,そのなかには外国貿易にもあたるような豪商も現れる。港湾だけではなく,京都や奈良のような国内都市に大量に商品を取り扱う,問屋が発生し,また街道筋には伝馬屋敷から伝馬問屋への発展もみられるに至る。江戸時代になると問・問丸といわれたものが,問屋(といや・とんや)と称されるようになる(関東はとんや,関西はといやといわれる)。領域経済と全国経済との対立と融通,城下町と直轄都市との背反と連係,生産地と消費地との分離と結合により介入してくる問屋はまず積問屋と荷受問屋とに分かれ,これを結ぶ中継としての集散地問屋が力を得る。集散地の問屋は諸問屋・万問屋・荷受問屋の形態となり,さらに国ごとに,その国産出の種々の商品を取扱う国問屋とに発展する。大坂の肥後問屋・松前問屋・薩摩問屋・土佐問屋のごときものである。また赤間ケ関・兵庫にも同様なものが現れる。大坂の荷受問屋は荷請問屋ともいわれた。特定地方産出の商品を種類を限らず,総括的に取扱う委託販売問屋であって,この種の荷受問屋は大坂にあって,ある特定地方から廻送される商品を何分かの手数料を受けて売捌いたもので,実に問屋の問屋たる立場にあるものであった。諸藩は大坂に蔵屋敷を設け,所領地から出る諸物産を大坂に輸送し,販売したが,この蔵屋敷には代々付属せる所定の問屋があった。これらの問屋は蔵物を引き受けるのみならず,兼ねて同地方からの納屋物の売捌きにあたった。特定の国々からの物産を扱うので,国問屋といわれた。薩摩問屋・土佐問屋・松前問屋・肥後問屋・長崎問屋といわれ,諸国問屋ともいわれた。各々その取引ある国名を冠し,多くは大坂から遠隔地の遠国(おんごく)問屋であった。たとえば松前問屋は松前荷受屋ともいい,幕末には幕府の箱館産物会所の付属仲買で,北海道よりの諸魚・絞り粕・肥物・身欠鯡・棒鱈・塩鮭・干アワビ・干スルメ・煎海鼠・昆布・布海苔・硫黄,鹿皮・馬皮その他の毛皮,黒豆・大福豆を扱った。薩摩問屋は島津藩の蔵物である木綿麻布・菜種・和薬・硝石・硫黄・樟脳・貝類・紙類・牛馬皮・牛角・生油・芭蕉芋・椎茸・生葛・鶏卵・泡盛・黄楊・樽丸・木材・陶器・鰹節・干魚・砂糖などを扱った。また土佐問屋は椎茸・土佐紙・鰹節その他を取り扱っていた。明治以後大阪の松前問屋は荷受問屋一番組,薩摩問屋は荷受問屋二番組,土佐問屋は荷受問屋三番組といわれた。
兵庫の諸問屋は幕府天領となった兵庫で121軒の諸問屋株が設定された。各国の船が積み来れる諸商品の委託販売を主とするもので,その相手は穀物問屋・干鰯仲買い,であった。近世の新潟には大問屋・小問屋なるものがあった。大問屋は販売委託と買付委託を受け,規定の口銭を受け,本業のほかに倉庫業の廻船業も兼ねていた。小問屋は地廻廻船宿ともいうべきものであった。大津の荷問屋は諸物品の問屋で,琵琶湖上の運送業をなし,米・油の問屋を兼ねていた。近世の港々には諸物品を取り扱うものも多く,万問屋といわれた。赤間ケ関の万問屋は大阪を初め,中国・四国・北国を相手として商取引をなすもので,その取扱商品には正米・鰹節・畳表・綿・塩などがあり,正米を主としていた。正米は北国・北州より回送され,北国筋と取引するものは北国問屋といい,それには付船・小宿の小問屋が付属していた。また港には船問屋というものがあり,清水港の船問屋のごときものである。また尾道には浜問屋があり,中継地として北前上方筋・西国筋の畳表・食塩・綿・錨・食酢・酒・煙草を取り扱った。港々の諸物品問屋は各地より送られた商品を水揚げする荷受業務と,これを適当な仲買に仲介し,委託販売をする業務を兼ねていた。
諸物品問屋は凡百の商品を引き受け,これを売買するものであったが,取引量の拡大につれて,自らの専門を定めるに至った。こうして米問屋・油問屋・肥物問屋・蝋問屋・薬種問屋・材木問屋・樽問屋・塩問屋・炭問屋・酒問屋ができる。このように専門的な取扱商品を特定するだけではなく,そのなかで最も特徴とするものを取り扱うに至る。しかも諸物品問屋がおおむね委託売買を主として手数料主義であったのに対し,専業問屋は委託売買のほか,仕込みをも行うに至り,自己の名と責任において取引するに至る。専業問屋が委託問屋よりしだいに仕込問屋化したのは,このほうが多くの利益を得られるからであり,他方地方荷主も迅速に商品を捌くことができ,かつ代価決定が公正であったからである。たとえば,江戸の問屋は消費地問屋で分散過程を担当したが,米問屋といっても,上方米を主として引き受ける,本米問屋と地回り米で奥筋米を引請ける地回り奥問屋になり,のちこの本米問屋は下り米問屋となり,地回り奥問屋は関東米穀三組問屋と地回り米問屋の二つに分かれた。
中世においては商工は未分化で,原則として注文生産をなした。江戸時代になっても手芸的・細工物的な製作にあたる業者があり,職商人といった。しかし「職商人」といっても,商品生産をなして問屋化するものが現れる。これが加工問屋で,生産者そのほかより原料を購入し,これに加工を加えて販売するもので,広義では専業問屋であり,仕込問屋であったが,仕込過程の背後に,生産過程を含んでいた。自家の職人・徒弟を使用して加工をほどこし,あるいは都市の職人たちが自ら仕上げた商品を買い取るに至る。これを仕上師という。また問屋より原料を供給し,職人をして加工させ,一定の工賃を給すものがあった。手間師の一種に足袋問屋があった。木綿足袋の発達から江戸などでは足袋手工業を出現させたが,これは注文生産による職人的な製造小売人であった。ところがのち木綿製産地に大量に足袋を製造する問屋が現れる。大坂や行田の例がこれで,大坂は河内木綿の関係より,行田は盲縞の産地として,こうした問屋制家内工業がおこる。恩藩の行田で行田足袋問屋が発達する。漆器問屋も漆職が漆問屋より原料を買い入れ,椀盃木地は漆器問屋から提供を受け,これに加工の上,再び漆器問屋に収めたものである。両毛や信州の製糸問屋や信州の麻糸紡のごとき,信州や甲州の絹織物,越後や,奈良・江州の麻布においても同様なものがみられた。
また具体的市場である青物市場・生魚市場においても,相対売買・競売をする問屋・仲買いがあり,干魚市場・乾物市場にもこれがあり,材木市場には競売買や入札売買をなす仲買がいた。また米や油の投機市場にも帳合米などの先物取引を行う仲買いがいた。それは通常,株仲間を組織し,株制度になっていた。
問屋・仲買いは株仲間を結び,何程かの特権をもつに至る。御免株の場合はともかく願株の場合は何組かの冥加金を上納して株数を限定し,独占的になっていた。小売人の経路をとった。しかし問屋→仲買いの順序をとるものと,仲買い→問屋の順序をとるものとがあった。前者にあっては問屋は荷主の委託を受け,仲買いにその貨物を売り捌いた。あるいは荷主から買い取ってこれを仲買いに売り捌いた。
たとえば大坂の松前問屋は昆仲買い四組・海部堀四十物仲買い・堀江組干鰯仲買い・硫黄屋仲問・白革師に売り渡した。ただし松前問屋の商品も箱館産物会所設立後はその蔵物とみるべきであった。
荷受問屋もしだいに専業問屋となるが,専業問屋はそれぞれの専業の仲買いにその商品を売り渡した。納屋米というのは百姓米の作徳米のことで,たとえば大坂では納屋物穀物問屋が引き受け,これを市中の場米屋に売り渡した。江戸においても蔵米たる武家払米があった。
近世の配給商品は問屋・仲買いの系列をとるのを原則とし,おおむね問屋・仲買いは株仲間・仲間を組織し,そして独占機能・権益擁護機能をとるのがふつうであった。各仲間はその分を守り,互いにほかの業域をおかすことをつつしんだものである。もし荷主が問屋をないがしろにして,直ちに仲買いに売却したり,あるいは問屋か仲買いを無視して,直接,小売人や地方商人に売渡し,あるいは仲買いが問屋をさしおいて,荷主と直取引きすることがあれば,これを「引がたり」といって,排斥したのであった。これを直売り・直買いといって,あたかも不義不正であるかのごとく糾弾された。また問屋・仲買いは株仲間免許により,地域的にその特許的権能をもっていた。たとえば,大坂の問屋は西国からの積荷は脇浜では陸揚げさせず,必ず大坂で水揚げさせ,その手をもって分散配給せしめうる伝統的な特権をもっていた。そして大坂の問屋をさしおいて,他地に水揚げした場合は,これを「抜荷」と称して取り戻すか,適当な口銭を支払わせ,また大坂を経由せず,直送した貨物は,「津越し」といって糾弾した。江戸の問屋には「打越荷物」というのがあった。大坂から荷物を東北に送るには江戸を通りこして,すなわち江戸の問屋を経ずして直送し,また東北から江戸の問屋を経ずに大坂へ荷物を出す場合は「打越す」といい,その商品を「打越荷物」といって禁じていた。これは江戸問屋の株仲間的特権が強かったことにもとづくものである。しかししだいに問屋仲間の権力が動揺するとともに江戸においてしだいに潜り商人が出て,打越荷物が多くなり,大坂においても津越しが多くなり,また西国筋および上方から江戸への商品は原則として,集散地である大坂問屋から送りつけ,江戸問屋は出買することがなかったが,近世の後期には大坂の問屋を経ず産出地・積出地から直ちに江戸へ直送し,直売するものが現われた。地方の分国内においても城下町の問屋の手を通さず,直接に仕入れする仲買いや町場商人が現れるに至った。たとえば,名古屋には越前や近江の木綿商人が入り来り,宿所を求め,セリ売りをなし,城下町の問屋を経ないで仲買いに直売し,また需要者に注文物と称して,売り捌いたなどはこの例である。江戸・大坂間の取引には名種商品の連合である組問屋ができ上がっていた。
問屋としてとくに有名なものは,大坂の二十四組問屋,江戸の十組問屋であろう。江戸の商店は大坂から供給されることが多かったので,海上輸送の利害を同じくする江戸の問屋仲間が結成され,元禄年間に塗物組・内店組(布,糸など)・通町組(小間物太物など)・薬種店組・釘店組・綿店組・表店組(畳表)・川岸組(水油)・紙店組・酒店組の十組問屋ができて公認され,ついで大坂に二十四組問屋ができ,両者は相提携して海損の負担を協定し,独占権を守るに至っていた。大坂の二十四組問屋に含まれた問屋は綿買次積問屋・油問屋・鉄釘積問屋・江戸組毛綿仕入積問屋・一番組紙店・表店(畳表)・塗物店・二番組紙店・内店組(木綿類)・明神講(こんぶ・白粉・線香・ふのり・下駄・鼻緒・からかさ・絵具類)・通町組(小間物・古手・葛籠など)・瀬戸物店・薬種店・堀留組(青むしろ類)・乾物店・安永一番組(紙類)・安永二番組(金物類・木綿・古手など)・安永三番組(渋と石など)・安永四番組(打物・針金など)・安永五番組(たばこ・古手など)・安永六番組(金指・干魚など)・安永七番組(かつおぶし・からかさなど)・安永八番組(ろう)・安永九番組(木綿・古手など)・二十四組であって,これには安永九番組に属する追九番組として六組が含まれていた。十組・二十四組のような問屋仲間の複合体もあったのである。
株仲間は寛文ごろから始まり,元禄ごろにはしだいに整ったが,その前は内分組合・内仲間としてあった。しかし享保ごろから株仲間を認めるに至り,明和・安永・天明期には私の仲間から「表仲間」となり,運上・冥加を上納して免許を得た株仲間が多くなる。江戸の十組問屋の冥加金上納も1804年(文化1)のことであった。株仲間的な問屋は無株のものの営業をとめ,仲間にて相場を定め,口銭も定法口銭といって仲間中で一定していた。問屋仲間は生産者や荷主が年来の慣習を破って問屋替えをすることを防止し,取引上の協定をなして,取引上の円滑を期していた。歩引き・歩戻し率の申し合わせもなした。しかし株仲間には弊害もあり,諸式高直の原因ともなったので,1841年(天保12)には問屋仲間の解散が,天保改革の一環として行われた。天保12年12月13日,幕府は江戸十組問屋を召し「問屋共不正の趣も相聞候」といって,同株を停止し冥加金1万200両の上納を免じた。まず十組問屋から始めたのは,大坂の二十四組が江戸十組問屋に対し,つねに貸勘定となり,その滞代銀が大坂問屋をして委縮させ,江戸積みを見合わせた結果,江戸の諸式を潤沢せしめず,供給不足のため,値段を騰貴させたからであろう。かくて「問屋・組合・仲間等唱候儀」を停止し,これは一般に及んで,江戸・大坂のほか,京都・大津にも及んだ。しかし解放令は地域的に不徹底で効果が上らなかったので,1845年(弘化2)遠山左衛門尉の建言で,ついに1851年(嘉永4)3月9日の問屋組合再興令が出る。嘉永4年の再興令では株仲間の人員制限と冥加金銀の上納はなくなったが,やはり安政ごろには冥加金銀の再上納もあったし,天保以前の問屋の特権はなお存続したと思われる。幕末には幕府の産物会所計画が実施され,とくに安政元年の和親条約以後,外国貿易も行われ,輸出貿易がおこり,開港後はにわかに各地の産出の雑穀・水油・蝋・呉服・生糸などは神奈川に直送されて貿易にあてられ,いわゆる打越荷物は江戸問屋の手を経ないようになり,江戸問屋のギルド的特権は動揺した。こうした混然たる状態のままに「御一新」となったのである。明治維新のあと問屋・仲買いの境界は乱れ,問屋は同時に仲買い的性格を存するに至り,ついに卸商なるものを形成するに至った。江戸時代の株仲間は京都・大坂・江戸のいずれにおいても慶応3年中に諸株存置の伝達あり,そのまま認められたが,1868年(明治1)5月商法会所が商法大意・五力等を出し,「諸株仲間より二人ずつ肝煎を選定すべし,名前を差出すべし,諸料仲間取調の上,人数増減勝手たるべし,在来の冥加金,上納金は廃止すべし」とあり,大坂においては明治元年6月9日,旧来の仲間の株札を廃し,改めて商法会所から,一般に鑑札を下付することにした。卸売は本来小売に対する大売りの称呼で,大量売りを意味し,駄売り・束売りなどを称した。米穀では俵売りをして桝売りをせず,材木では束物をそのまま売って,小訳けをなさず,端物であれば一端以下は売らないことをいった。
江戸時代においては卸売りは多く,仲買いおよび仕込問屋の商行為にみられた。仲買いは元来購買者の注文により,問屋から貨物を買い入れるものであるが,実際は注文を待って買い入れるのではなく,おおむね相場の騰落を考えて,自己の計算で問屋から買い入れておき,これを一般に販売するものであった。また仕込問屋も委託問屋とは異なり,自己の計算で直接荷主から商品を買い受け,小売人や地方商人に売り捌いたものであった。このような商行為はおおむね大量販売となったから,これが卸売りをしたものということになる。江戸時代の商品の収集・仲つぎ・分散は問屋・仲買いの過程を経て厳重に行われたものであったが,維新後,問屋・仲買いの境界は乱れ,問屋は同時に,仲買人となったから,ここに二つが合体していわゆる卸商なるものを形成するに至ったのである。
問屋・仲買いの分界が混乱した第1の原因は,廃藩によって,従来問屋が保存して来た特権的地位がくつがえされるに至ったことである。元来江戸時代の問屋は旧藩の保護を受けていたのであって,各藩は蔵物はもちろん,たとえ領内の百姓・町人の貨物であっても,多くの場合,取り扱い問屋を一定するありさまで,ある種の商人に限って,この特権をもつことができた。国産売支配人・売捌人というのがこれである。大坂の薩摩問屋・土佐問屋などの荷受問屋も,またこの特許商人の一種であった。しかるに廃藩後,この特権が失われ,このような制約から脱した地方荷主は,その欲するままに購入する商人を求めて販売することができ,また従来仲買いは問屋の手を経てのみ,その商品を入手できたが,もはや問屋の手を介することなく,直接地方の荷主と取引きすることができるようになった。
また新政府は先に「商法大意」をもって株仲間の変質を来さしめ,のち地方によって遅速の差はあったが,たとえば大阪では1872年(明治5)4月に断乎として株仲間の解放をなした。しかし株仲間の解放後,明治6年・7年・8年には多数商業組合ができ,のちに準則組合さらに重要物産同業組合ができるに至る。株仲間の解放によりむしろ問屋・仲買いを一丸とする,卸商または卸問屋ができ上がる。問屋は委託問屋・仕込問屋・加工問屋に分けられるが,委託問屋は必ずしも利潤大ならず,さらに荷主の側からみて,資金の回収が速かでないこと,代価の決定が不公平であることなどの理由から,しだいに衰退し,ついで加工問屋は問屋制家内工業が工場制工業に圧倒されるとともに,いわゆる工業家に地位を奪われた。そして問屋は多くは仕込問屋化する傾向にむかい,いわゆる卸商が成立する。1880年(明治13)4月営業惣則は会社・卸売り・仲買い・小売りの区別を設け,問屋は卸売りの部に入ることとなった。以来卸売りは問屋・仲買いを一丸として指称する広範な名称となり,仲買いという名称は,従来の意味を離れて,むしろこれまで牙あい・鳶・才取り・取次人などといわれた商業補助業者(ブローカー)の名称となった。1911年(明治44)の新商は問屋の意義を「問屋とは自己の名を以て他人のために物品の販売又は買入をなすを業とするもの」と規定しているが,ふつう問屋という名称はこのような狭い範囲には使用されず,きわめて広範かつ漫然と使用され,だいたい卸売りをする大商人というくらいの意味となり,しばしば問屋と卸商とを併せて卸問屋といわれることとなり,卸小売りなるものは,卸しと小売とをかね営むものに対する称呼となった。かつての諸物品を取扱う諸問屋・万問屋・荷受問屋も衰退し,船もちは海運業が取り扱い,たとえば松前問屋のごときは肥物商や米穀商となり,薩摩問屋は黒砂糖商に転化した。このように旧来の経営方法をとる荷受問屋が衰退し,むしろ新たな形態をとる各種物産会社・商事会社として大をなすに至る。商事会社も貿易業界に進出し,日本綿花・東洋綿花となり,伊藤忠・丸紅のごときものなど,こうして貿易商社もまた,新たに諸物品を広く扱い,三井物産・三菱商事・住友商事のような総合商社となって巨大化するに至る。大メーカー企業も,その販売部門を分離して,別会社をつくり,また代理店制度をとり,旧来の問屋の地位はそうしたものによってとって代わられるに至る。