●ドイツロマン主義 ドイツロマンしゅぎ
ヨーロッパ ドイツ連邦共和国 AD
ドイツ・ロマン主義を一義的に表現することは不可能といっていい。それは啓蒙主義・シュトゥルム=ウント=ドランク・古典主義などの文芸上の運動ばかりでなく,18世紀以来ようやく活発化してきたさまざまな政治や経済の影響を反映しながら,それらと対決・反発・摂取・克服などの局面を体験した人々の,約半世紀に及ぶ文芸運動であった。この運動はまた,次の世代に,ビーダーマイヤー・リアリズム・ニヒリズムという形で受け継がれる要素をも秘めていた。まず,ヘルダーが,ある民族の言語・文学・文化をその民族性・気候・風土によって解釈したり,歴史のとらえ方を,有機体の成長過程に準じるものとする新しい歴史哲学を試みたことによって,ロマン主義への道を切り開いた。そしてドイツ=ロマン主義は,次のように三つの時期に区分して考えられている。(1)初期ロマン主義(ほぼ1789〜1802):イエーナを中心とし,『アテネーウム』を機関誌とするシュレーゲル兄弟・ティーク・ヴァッケンローダー・ノヴァーリス・シェリング・シュライアーマッハーなどの集団。(2)中期ロマン派(ほぼ1805〜1808):ベルリン・ハイデルベルクを中心とし,『隠者新聞』を機関誌とするアルニム・ブレンターノ・アイヒェンドルフなどの集団。(3)後期ロマン派(ほぼ1810〜1835):ベルリン・ドレスデン・シュヴァーベン地方・ミュンヘンなどを中心に,『ベルリン新聞』『フェーブス』『有識者朝刊』などを機関紙とするアルニム・ブレンターノ・アイヒェンドルフ・クライストなどの集団に分けられる。ロマン主義の創始者たち,彼らの大ていは1770年代の前半の生まれであるが,ルソーの“ロマン主義的とは風景(自然)と魂の一致を意味する”という表現をロマン主義の最高の芸術解釈と宣言した。その後,彼らによって「ロマン主義的」とは「感情のあふるるもの」「予感に富めるもの」と解釈され,啓蒙期の合言葉であった「悟性に則したもの」とは対立的に用いられるようになった。「いっさいの現実の存在」を「永遠に生成するもの」として,また「個別的な存在」を「無限なるもののある種の表現」として解釈する世界観・人生観へと深められていった。このようにして,初めは美学的・文学的運動であったものが,しだいに文化的・思想的な方向へと進展していった。ロマン主義のはるかなるもの,異なるものへの異常なまでの感情移入の能力,また無限なものへのあこがれは,各国の過去はいうに及ばず,現在の民族文化の特性を認識させることになり,また市民階級の台頭による新しい個性の自覚とともに,多くの知的な要素の発掘・啓発は,啓蒙主義の遺産にもとづくものであった。それはまた,各国の優れた文学作品の翻訳となって現れたり,ノヴァーリスが示したように,自然科学研究の成果への関心や,シュレーゲル兄弟の文学史,グリム兄弟の言語史・文学史などに現れ,また新しい自然観にもとづくシェリングなどの自然哲学さらには自我の無限の拡大による絶対的自我の創造的自由の確立に至るフィヒテの哲学などを生み出し,感情や知性の総合への試みや,夢・無意識への探究は近代心理学を生み出す温床となった。この知的な傾向は,一定の立場や考えや愛にとらわれることなく,それと戯れ,身軽に乗り越え,無限におのれの自由を確保しようとする,ロマン主義的イロニー(F. シュレーゲル)に顕著に現れている。この傾向は,ロマン主義の非決定性・非決断性を示すものであり,その自己分裂性は,文芸作品の未完成・断片・パラドックス・アフォリズムを生み出す要因となった。またあくことのない自我の解放はたとえばハイネのように,社会的な面においては,倫理的な秩序をゆるがす結果となり,従来の人間関係を疑問視する状況を,また過去へのとりかえせない追憶はペシミズム(アイヒェンドルフ)を,あるいは伝統的考えをリアリズム的に超克(メーリケ)しようとする傾向を生み出すことによって,次期のさまざまな文芸運動の萌芽となった。フランス・イギリスのような先進国の現実の政治的・経済的繁栄を望めないドイツにあっては,内面世界を重視する傾向は否めない。これはドイツ音楽や,カント・フィヒテ・シェリングに至るドイツ観念論と呼ばれる哲学に顕著であるが,文学の面では,魂の力によって物質界を支配でき,理念を実現できるという,魂の力に極度の力点を置いたノヴァーリスにその内面化の典型をみることができる。後期ロマン派に至って,自我の神格化は影をひそめ,各個人を自然と歴史,国家と宗教の関係でとらえ,それに従属させる傾向が現れてきた。ロマン主義の感受性や感情移入の能力および“現状への不満感”が歴史主義を助長し,より完全なものは,もはや未来にではなく,詩的に美化された過去に求めるようになった。このような見方は,ロマン主義の歴史観の偉大さであると同時に,たとえばランケのように,自ら想像した理念的な歴史像を歴史記述のなかに持ち込む欠点を伴うことになった。