●ドイツ文学 ドイツぶんがく
ヨーロッパ ドイツ連邦共和国 AD
ドイツ文学とは,ドイツ本国を中心に,その他オーストリア・スイスなどの,ドイツ語を母国語とする圏内の文学の総称である。このドイツ文学も,イギリス文学やフランス文学,その他の西洋文学の場合と同じように,古代ギリシアとキリスト教をその共通の源流とする,西洋文化全体の伝統の上に誕生し開花した,人類の貴重な文化財である。このことは,ハルトマン・ヴォルフラムの中世騎士文学・バロックの宗教詩においてキリスト教の信仰が全体の基調音になっていること,また,ヴィンケルマン J. によるギリシア研究がドイツ古典主義の形成にとっていかに決定的な意味をもつものであったか,以上の事実をみただけですでに明らかである。けれども,ドイツ文学においては同時にまた,ドイツ文化独特といえる個性的な特質が看取されてくるということを見過ごしてはならない。それは,この国固有の地理的・歴史的条件によって培われてきた,そのユニークな国民性をきわめて具体的に反映している。この傾向は,近世以降,ヨーロッパの近代化が進むにつれて顕著になっていったのであるが,このドイツ文学をとりわけ唯一無二なものにしている要素として,まず指摘されなければならないのは,ロマンティックな情緒であり,内省的な探求精神であり,また,ときに野蛮なものに,ときに悲劇的なものに変貌する,ゲルマン的剛直さ・誠実さ・深刻さである。ドイツ文学とはそもそもポエジー(詩精神)の文学である,とよくいわれてきた。それは,ドイツが世界に誇る文化的偉業の一つである「ドイツ歌曲」が音響化しているような,ロマンティックな情感の深い美しさを形象化しているからである。とりわけドイツ=ロマン派の詩作品においては,夢や陶酔・喜びや悲しみ・憂愁や絶望など人間の純正な情感の諸相や自然に対する敬虔な思いが,日常言語の位相を超越した詩的言語によって表現され,全体は魔法のように美しい雰囲気を醸成している。以上のようなポエジーの精神はまた,C. F. マイヤー・シュトルム・ヘッセの作品をそれぞれ忘れ難いものにしている一契機である,アルプスの峰の輝き,濃霧に包まれた北ドイツの海辺の街,郷愁を呼ぶ空の雲などの,香り高い自然描写のなかにもうかがわれるのである。ドイツの詩人にとっては,歴史や社会の動静よりも,魂の内面から発する純粋な声のほうが,概してより本質的であった。このことは,孤独の深みに徹することによって,詩と人生の本質を初めて体得できたリルケのような詩人に関して,とりわけ妥当する。ふりかえってみると,ドイツにはアカデミー=フランセイズのような,詩人や文士のための公的な社会制度は設定されておらず,その社会的地位は,はなはだ不安定なものであった。詩人は,極端にいえば,たいがいは社会のアウトサイダーだったのである。だからこそ,トーマス=マンやヘッセなどが一群の「芸術家小説」において,詩人である自己存在とは何か,また,いかにあるべきか,という自己の実存にかかわる問との真摯な対決を試みたのであった。このような自己凝視のパトスも,ドイツ文学を際立たせている特徴の一つなのである。ドイツ文学においては,個性の無限の可能性を確信し,精神の絶対的な自由の立場から人間の問題を根底的に掘り下げていこうとする,哲学的・内省的傾向が顕著である。シラーの高邁な理想主義,ノヴァーリスの神秘的な「魔術的観念論」,ヘルダーリンの崇高なヘラス世界の憧憬などは,その代表的な例といえる。けれども,このような内面化への道に徹し抜こうとするときには,ともすれば,ほかとの正常なバランス関係を失い,ほかとの相剋葛藤に,さらには自己分裂の危機に陥ってしまうのである。無限なるものを希求して巨人主義的な終生の努力をつづけるとき,人間は独立不覊の天才的な道を歩む。しかしながら,節度を忘れて,止まるところを知らなくなるときには,混沌の渦に巻き込まれて破滅するのである。ゲーテの『若きヴェルテルの悩み』をはじめとする,「シュトゥルム=ウント=ドランク期」の文学は,このようないわゆる「天才的・ファウスト的人間」の悲劇を主題化したものであった。このとき詩人は,極限状況的な危機をいかにして超克し,自己を救済するかという,せっぱつまったぎりぎりの問と対決しなければならない。だからこそヘルダーリンはこう歌っている。〈されど危機あるところ,救いの兆しあり〉危機の極北は同時に自己救済の契機となる。この詩人の作品・表現主義の文学・カフカの物語作品などをみれば即座に明らかとなってくるが,ドイツ文学は,ときにこのような黙示録的相貌を刻むのである。このようにドイツ文学は,人生の深刻な問題の描写において比類がない。血なまぐさい復讐,崇高な自己犠牲,狂気寸前にまで追い込まれ抜きさしならなくなった自己分裂の苦悩,これらのどす黒い不気味な世界の描写は,ドイツ文学の独壇場となっている。『ニーべルンゲン』,クライストやヘッベルの劇作などが繰りひろげる,いわゆる「ゲルマン的な」世界は,その端的な例であろう。それはまさに,ドイツ語の「デモーニッシュ」ということばをもってしか言い表せない世界である。しかしながら,角度を変えてみるならば,ここにおいては,均整と明晰,秩序と造形を重んじる古典性,つまりラテン的要素が欠如している。したがってそのあいだの調和を実現することが,ドイツ文学の終生の課題であった。そこからドイツ文学では対象が,肉体と精神・理性と反理性・生と死・アポロ的とディオニソス的といったような,二律背反のかたちで把握され主題化され,その克服による人間の最終的救済が繰り返し問題にされてきたのであった。このようなドイツ精神の死活にかかわる問に対して,最もみごとな解答を与えたのは,ゲーテであった。ゲーテは,地中海的造形精神を自己の「ファウスト的」精神のなかに同化し,双方の過不足なき調和を実現することによって,自己の芸術を,ひいてはドイツ精神をその深淵から救済したのであった。この意味でゲーテの古典主義は,ほかに比類のない範例として,ドイツ文学,ひいては世界文学において不滅の光芒を放っているのである。ところで,このような調和と救済に至るための人間の試練の過程を,生か存在の二元的対立の問題として取り上げ,人物や対話を通して現在化しつつ,根底的に問いつめていくには,演劇が最も適したジャンルである。それゆえ,ドイツ文学は演劇の領域においては,クライスト・ヘッベル・シラーなどの傑出した作家を多く輩出している。また,問題を人間の魂の発展と成熟,一個人の人生遍歴という観点から取り上げるとき,それに最適な創作領域は,漸進的に時の流れをたどる叙事詩的文学であって,その意味でドイツ文学は,いわゆる「教養小説」,または「発展小説」という,特殊なジャンルを生み出したのである。グリンメルスハウゼン・ヴィーラント・ゲーテ・ケラー・シュティフター・トーマス=マンたちが書いたこの部類の小説は,ドイツ文学の世界文学への独創的な寄与としてひときわ光彩を放っている。注目すべきことには,ここで展開されているすべての問題は,作者の「詩作と体験」を抜きにしては考えられない。すべては,この契機を創作の出発点であると同時にその帰着点としている。そのような局面においてドイツ文学は,自伝的色彩のきわめて濃い文学となってくるのである。
ドイツは,三十年戦争以来,ヨーロッパの政治的先進諸国によって国全体を数々の新教公国・旧教公国に分割され,前近代的・封建的残滓(ざんし)を多く存続させていた。ビスマルクによる統一国家ドイツ帝国の建設も,それゆえ,市民革命の洗礼を受けてきたイギリスやフランスの場合のように,順調で正規な近代史の歩みのうちに実現されたものではなかった。それは,権力の側から強引に行われた,いびつな近代化の所産だったのである。ドイツにおける政治と文化のあいだには,正常なバランス関係がなかったのである。ここで注視すべきことは,ドイツ文学を光彩陸離たるものにしている「内面性」の世界は,じつは,このようなドイツの政治的後進性の上に初めて成立したものだったということである。というのも,18世紀から19世紀にかけての多くのドイツの詩人たちは,自己の政治的・物質的無力,現状の悲惨さを痛感すればするほど,自己の造形した美の仮象の超越的な世界のなかに没我的に沈潜し,そのなかにドイツ精神の普遍的な使命を見出そうと試みたからである。この意味では,ドイツ文学ぐらい不思議な矛盾を内在化させた文学はほかにないといえる。文化と政治とを峻別し,前者を称揚し,後者を蔑視する,ドイツ文学特有の文明批評も,じつはこのようなところから発生したのであった。
かつてマルクスとエンゲルスは,ヨーロッパのほかの先進諸国と比べてあまりに較差の大きい,前近代国家ドイツの社会的現実を,「ドイツの惨めさ」と呼んだ。しかしながら,ドイツは実践理性の命に従って,近代化を実現し,ほかの文明諸国に伍していかなければならなかった。ちなみにかかる現代化を強行するとき,権力との妥協の上に台頭した新興ブルジョワジー特有の俗悪な成り上がり根性,杓子定規な官僚主義,打算的な現実主義,機械化した管理機構などが頭をもたげてくる。ドイツ文学はまた,このような非人間化の現象に対して,地震計のように敏感に感応してきたのであった。ハイネを中心とする「若いドイツ」に属する文士たち,フォルスター,ビューヒナー,行動主義を標榜した表現主義者たちは,ドイツの社会的啓蒙と解放のために政治に身を投じたり,政治を創作の主題にしたりした。いわゆるアンガージュマンの詩人たちが痛切に体験し,根底的に見極めてきたのは,政治と文化との二律背反の場に渦巻くカオスであった。さらにまた,ビーダーマイヤー固有の俗物嫌悪,ハインリヒ=マンがつねに試みてきた痛烈な権力の戯画化,最近においては,ベル=エンツェンスベルガーのあまりにも攻撃的な時事評論,これらさまざまなかたちで流露する体制批判のラディカリズムは,上述のようなドイツ文化の特殊な状況を抜きにしては考えられないのであり,そこにはそれぞれ詩人特有の魂の屈折と陰りをどこか漂わせているのである。それらはすべて,ドイツ詩人たちの受身の深さを物語るものといえる。
以上ドイツ文学の著しい特色を全般的に概観してきたが,ドイツ文学は,まさに運命の文学であり,問題意識中心の文学だといえる。ニーチェのことばを借りるならば,〈人間的な,あまりに人間的な〉文学なのである。中世以来現代に及ぶこのドイツ文学の各々の時期を,文学史の従来の常識的区分に従って列記すれば,およそ以下のとおりである。
中世ドイツ文学,ドイツバロック文学,ドイツ敬虔主義,ドイツ啓蒙主義,シュトゥルム=ウント=ドランク,ドイツ古典主義,ドイツロマン主義,三月革命前の文学,ビーダー=マイヤー,ドイツ写実主義,ドイツ自然主義,ドイツ印象主義,ドイツ表現主義・新即物主義,第二次世界大戦前後のドイツ文学,そして現代に至る戦後のドイツ文学。
〔参考文献〕相良守峯著『ドイツ文学史』上・下巻,1969,春秋社
藤本淳雄ほか著『ドイツ文学史』1977,東京大学出版会
手塚富雄著『ドイツ文学案内』1963,岩波文庫別冊3
竹山道雄編『現代世界文学講座ドイツ編』1950,新潮社
フリッツ・マルティニ著 高木実ほか訳『ドイツ文学史』1979,三修社