●ドイツ農民戦争 ドイツのうみんせんそう
ヨーロッパ ドイツ連邦共和国 AD1524 ハプスブルク朝
1524〜1525年ドイツにおこった農民を中心とする大反乱。しかし農民だけではなく多数の市民や鉱山労働者も加わっていたので,農民戦争という名称は事態を適切に表現していないとの見解が有力になっている。東ドイツの研究者は宗教改革と農民戦争とを一体としてとらえて,〈初期市民革命〉と規定するが,東ドイツ以外ではその支持者は少ない。西ドイツでは農民戦争の革命性を認めて,“平民(ゲマイナー=マン)の革命”と規定する見解も出されている。【前史と原因】15世紀,とくにその中ごろ以後西南ドイツを中心として南ドイツでは農民一揆が頻発しており,1514年ヴュルテンベルクでおこった「貧しきコンラート」の一揆,1493年から1517年まで何度かにわたってライン上流地域でなされた「ブントシュー」の一揆計画がそのなかで著名なものである。小所領が集中し,諸種の権利が錯綜していた西南ドイツの領主は,土地領主権・裁判領主権・体僕領主権を一手に集めることによって領域的国家の形成と収入の増加をはかり,相続税,他領民との結婚や移住の自由の制限・禁止を強要し,村民の共同用益権を制限した。比較的大きな領邦では農民の権利の劣悪化はそれほど著しくはなかったが,そこでも領邦君主は租税の増徴によって収入の増加につとめたため,それらの事情が一連の農民一揆の主要な原因となったのである。したがって一揆の矛先は小領邦を形成しつつある領主と領邦国家に向けられており,事情は農民戦争においても同じであった。しかし農民戦争がそれまでの一揆と異なるのは,宗教改革運動から大きな刺激を受け,「神の法」「神の正義」で彼らの要求の正当性を弁証し得た点であり,そのことを通して一揆はドイツの3分の2をおおう反乱に拡大し得たのである。
【経過と結果】農民戦争の発端となる農民一揆がおこったのは,1524年6月西南ドイツのシュトゥーリンゲン伯領においてである。それはまだ伝統的な形態での一揆にすぎなかったが,その後翌年の初めにかけて蜂起が周辺の農村・都市に拡大する過程で宗教改革の影響が反乱民衆のあいだに浸透する。1525年2月蜂起農民の共同綱領ともいうべき『十二カ条』の要求箇条書が現れるが,それは福音の自由な説教と村民による司祭の任免,10分の1税の廃止,農奴身分の廃棄,共同地の自由な使用,貢租・賦役の軽減などの要求と聖書の引用によって基礎づけていた。一揆の波は同年3月には西南ドイツ一帯からフランケンに,4月にはテューリンゲンに拡大した。諸侯・領主は初めは軍事力の手薄さから交渉による解決の方法をとっていたが,1525年2月にイタリアでのフランス国王との戦争が神聖ローマ皇帝側の勝利に終わると,反撃の準備にかかり,4月から攻撃に転じた。南ドイツの諸侯・領主の組織するシュヴァーベン同盟軍はつぎつぎと西南ドイツの農民団を撃破し,テューリンゲンでもヘッセン方伯・ザクセン公らの軍隊が5月に急進的宗教改革派のトマス=ミュンツァーに率いられる軍団を潰滅させた。農民の蜂起は5月に入ってからもティロル・オーストリアに拡大したが,6月までに農民軍はほぼ完全に敗北し去った。翌年ガイスマイヤーの率いるティロル農民が再蜂起を企てたが,それは規模の上で農民戦争の余波の域を出ない。反乱の鎮圧後諸侯・領主は多数の反乱参加者を処刑し,戦争と処刑による死亡者の数は7万人から10万人にのぼったと推定される。また諸侯・領主は反乱参加者に罰金をも課した。このような結果に終わったために,農民の置かれた諸条件は悪化したとみなされることが多かったが,農民戦争の敗北にもかかわらず,農民の諸要求の一部は支配者側によってくみ上げられて事態は改善されており,かつての見解は,修正されつつある。
〔参考文献〕ベンジング・ホイヤー共著,瀬原義生訳『ドイツ農民戦争1524〜1526年』1969,未来社
エンゲルス,大内力訳『ドイツ農民戦争』1950,岩波書店