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●ドイツ帝国 ドイツていこく

ヨーロッパ ドイツ連邦共和国 AD 

 プロイセンの軍事力を背景に,1871年に創設されたドイツ統一国家

【国家構造】ドイツ帝国は,プロイセンをはじめとする22支邦・3自由市からなる連邦国家。(1)連邦参議院:連邦制を最も鮮明に示す機関。各支邦政府代表により構成され,立法発議権や法案承認権などをもつ。ただし各支邦政府代表には,あらかじめ定められた代表権数が割り当てられる(最高はプロイセン17,総数58)。ここには各支邦政府の独立性と発言力の尊重とともに,プロイセン中心主義がみられる。(2)皇帝:プロイセン王が世襲的に兼務し,帝国を代表し,軍隊統帥権,宣戦・講和締結権,宰相をはじめ文武官の任免権・議会の開閉や法律公布の権限をもつ。ここには濃厚な君主主義の色調とともに,プロイセン中心主義がみられる。(3)帝国宰相:議会にではなく,皇帝に責任を負う。連邦参議院の議長を兼ねる。各省大臣は自立性をもたず,宰相の下僚(次官)。なお陸軍大臣は置かれず,プロイセン陸相が機能を代行。(4)帝国議会:25歳以上の男子普通選挙で選出される。議員の任期は3年である。法案の提案・議決権を認められていたが,法律の最終決定権をもっていなかった。ここには未完の議会主義状態がある。

【帝国の統一性と支邦の独立性】ドイツ帝国を構成する各支邦は,独自の政府・議会・法制を保持していた。したがって,単なる連邦制ではなく,各支邦の高い独立性が保障されていた。これは帝国体制における遠心力を示すものである。これに対して求心力を体現するのが,皇帝・宰相・帝国議会である。帝国体制には,このような方向を異にする遠心・求心の二つの力が作用している。求心力を体現するもののうち,皇帝と宰相はプロイセン中心主義を示すものである(通常,宰相にはプロイセンの首相が任命された)。したがって,このような求心力に反発する遠心力は,反プロイセン主義と重なってくる。求心力と反プロイセン主義は,分邦主義といわれ,帝国における重要な政治問題の一つとなった。このことは,ドイツ帝国がプロイセンの軍事力によって,強引に達成されたという歴史的事情の負債であった。

【帝国の政治構造】ドイツ帝国は,1871年から1918年までの約半世紀にわたって存続したが,1890年ごろを画期として,その政治構造は大きく変化する。その根本的な背景には,資本主義経済の発展と高度化があるが,それに伴って労働者運動の発展と社会民主党の巨大化と躍進があった。1890年ごろまでの主要な政治舞台は,宮廷・政府・議会などであった。だが1890年に社会主義者鎮圧法が失効になると,労働組合運動と社会民主党の巨大化と躍進が始まった。こうして帝国の政策決定は,議会外の大衆運動をも巻き込むようになった。各政党・各階層が,さまざまな大衆組織と結びつき,大規模な宣伝・煽動活動を繰り広げながら,それぞれの利害を実現しようと競合するようになった。こうしたなかで,国民各階層の動向の結集点として,帝国議会の政治的比重も高まり,大衆民主主義的状況が醸成されてくる。

大衆民主主義の阻止要因】大衆民主主義の全面的開花を妨げていたのは,帝国の君主主義的構造であったが,各支邦や地方自治制度の面でも非民主的な要素が根強く残っていた。とくにエルベ河以東の地域には,ユンカーの支配が強力であった。また官僚と軍部は,議会や大衆運動の手の届かない独自な領域であった。これら両者のいずれにおいても,貴族・ユンカー出身者が,中枢的地位を占めつづけた。以上のこと以外にも,僕婢条例や団結禁止令,さらには帝国結社法などによって,集会や結社の自由が制限された。

【崩壊】ドイツ帝国は,複雑なさまざまな矛盾をかかえていた。第一次世界大戦のなかで,これらの諸矛盾は激化し,1918年のドイツ革命によって崩壊した。

〔参考文献〕木谷勤『ドイツ第二帝制史研究』1977,青木書店

ハンス=ウルリヒ=ヴェーラー,大野英二他訳『ドイツ帝国』1983,未来社