●ドイツ関税同盟 ドイツかんぜいどうめい
ヨーロッパ ドイツ連邦共和国 AD
1834年1月1日に発足した,プロイセンを中心にしたドイツ諸邦間の統一的関税機構。【背景】19世紀前半期,ドイツ連邦は,35君主国と4自由市からなる国家連合であり,それぞれの邦国は事実上の独立主権国家であった。したがって経済制度もそれぞれ独自性をもっており,統一性を欠いていた。だが資本主義経済の発展とヨーロッパ列強との競合関係の激化は,ドイツ経済における統一市場の形成を必要ならしめた。ドイツ関税同盟の結成は,このような歴史の流れに対応する試みであった。
【前史】関税同盟の歴史は,解放戦争に伴うナショナリズムの高まりとともに,繰り返し叫ばれた。だが1815年のドイツ連邦規約では,連邦諸邦国のあいだで,商業と貿易について商議することを定めていただけであった。こうした状態のなかで,指導力を発揮したのはプロイセン政府であった。1818年5月16日,プロイセン関税法が制定された。これによって,プロイセン国内のいっさいの国内関税が廃止され,国境に統一的関税線が引かれた。他方,1819年4月19日,西南ドイツの商工業者を中心にして,「ドイツ商工業協会」が設立され,関税障壁の廃止と外国商品に対する保護関税が要求された。こうしたなかで,地域ごとに複数の関税同盟が成立した。プロイセンは,1819年にシュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼンを自己の関税体制に併合し,1828年には「プロイセン=ヘッセン関税同盟」を結成した。他方,同年バイエルンとヴュテンベルクが,「南ドイツ関税同盟」を発足させた。さらに同年ザクセン・クールヘッセンなど中部ドイツの17邦国による「中部ドイツ通商同盟」が結成された。こうして並存する三つの関税同盟は,相互に対抗し競合した。そこで,これらの関税同盟を統合することが課題となった。
【ドイツ関税同盟への道】この課題の達成にむかって,指導力を発揮したのはプロイセン政府であった。1829年,「プロイセン=ヘッセン関税同盟」と「南ドイツ関税同盟」とのあいだに通商条約が成立した。そして1831年にはクールヘッセンが,1833年にはザクセンやテューリゲン諸邦が,プロイセン関税体制に合併され,「中部ドイツ通商同盟」は切り崩された。こうして北と南の関税同盟の合意のうえに,1834年1月1日,ドイツ関税同盟が発足した。この同盟に加入した諸邦国は,同盟の関税収入を人口比で配分し,関税の共通事項は,毎年開かれる関税議会(各邦国政府代表の集まり)で,各邦国すべて等しく一票を行使して議決された。しかし,関税同盟の形成過程を見ても,また現実の力関係からいっても,同盟における指導権は,プロイセンにあったことは明らかである。つまりドイツの政治統一にむけて,その土台ともいうべき経済的覇権を,プロイセンが握ったことを意味した。
【全ドイツ的な同盟へ】ドイツ関税同盟は,発足したときは,ドイツ連邦39邦国のうち,15邦国が加入していたが,その後さらに拡大していった。1835年にバーデン・ナッサウ,1836年にフランクフルト,1854年にハノーファーが加盟した。この間にプロイセンの経済的覇権を恐れたオーストリアは,自国も加盟することを策したが,それは,プロイセン側の妨害によって実現されなかった。普墺戦争におけるプロイセンの勝利ののちに,ドイツ関税同盟は,プロイセンの指導権をいっそう貫く方向で改組された。戦後,ライン川以北に,プロイセンを中心に22邦国によって,北ドイツ連邦という新統一国家が生まれた。そして関税同盟議会は廃止され,その代わりに北ドイツ連邦の連邦参議院と連邦議会に,南ドイツのバイエルン・ヴュルテンベルク・バーデンの代表が加わり,それが関税同盟の参議院と議会とされたのである。したがって関税同盟は,ドイツ統一国家の経済的側面を表現するものにほかならなかった。
〔参考文献〕諸田実『ドイツ関税同盟の成立』1974,有斐閣
千代田寛「プロイセン関税同盟政策(1818〜1834)の史的評価のための一考察」広島大文学部紀要32―2,1973
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