●ドイツ
ヨーロッパ ドイツ連邦共和国 AD
【総説】われわれが国名として使うドイツの語は,本来,ドイツ語またはドイツ人の意味であって,その起源は中世初期の古いゲルマン語 diutisk にある。この diutisk というのは,〈一般民衆の〉とか〈卑俗な〉という意味の形容詞で,フランク王国時代の公用語として用いられたラテン語(またはそれが変形した古フランス語)と区別するのに用いられたものである。そもそもドイツという国は,北フランス(ガリア)を中心にカール大帝がつくりあげたフランク帝国の東部(東フランク)が9世紀のあいだに西部と分かれて出来上がったものである。フランク帝国はゲルマン人の一派フランク族が建てた国であるが,のちにフランスとなるその西部地域が古くからローマの属州となっていたのに対し,ほとんどローマ文化の影響を受けていなかったため,古いゲルマン人の言語や文化がより多く保たれた。この点では北欧諸国の場合と似ている。 地理的にみると,ドイツは隣国フランスに比べても,著しく内陸的な国であり,北海とバルト海にしか大洋への出口をもっていない。そして地形は南高北低,つまりアルプスにつながる南ドイツが高く,ライン・ウェーゼル・エルベ・オーデルといった主要なドイツの川は,中部山塊を通って北ドイツの低地に向かって流れ,北海やバルト海に注いでいる。気候は,地方によってかなり違うが,平均すれば北海道の南部あたりに近く,5月が花どきで,9月にはもう黄葉がはじまるところが多い。民族性は一般に質朴で誠実・善良で勤勉を重んずる風がある。【中世のドイツ】ライン左岸から東はエルベ川にわたる東フランクの地には,フランケン・ザクセン・バイエルン・シュヴァーベンなどのゲルマン諸部族が割拠していた。ようやく10世紀の初めごろ,ザクセン部族の首長ハインリヒ1世が国王に選ばれたのち,彼とその子オットー1世が諸部族を統合して,ドイツ王国に基礎を据えた。彼らは,当時東方からドイツ人を脅していたスラヴ人やマジャール人のような異教徒としばしば戦い,これを撃退したため威望を高め,オットー1世は962年にローマ教皇から“西ローマ”の帝冠を授けられ,イタリアにもまたがる“神聖ローマ帝国”の支配者となった。この帝国は実に1806年まで存続し,13世紀の後半あたりからはイタリアが分離したため,ほとんどドイツ王国と変わらぬものになったが,その長い歴史は,ひと口にいって政治的分裂の歴史である。12〜13世紀には,旧い部族制がすたれて封建制度がドイツにも根を下したが,歴代のドイツ王は,あるいは教会支配をめぐって教皇と争ったり,商業の発展する地中海地域への進出を重視したり,とかく本国の統一をおろそかにしたため,諸侯の分立割拠は著しくなった。大司教や司教という高位の聖職者が諸侯のなかにかなり多かったのも特徴であるが,この封建制の盛期は多くのドイツ人がエルベの東,スラヴ人の居住地域に移住した時代でもあり,この東方植民によってブランデンブルク・プロイセン・ザクセンなどの大きなドイツ人領域ができた。
帝国の政治に分裂が甚しくなったのは,ドイツにはフランス・イギリスのような世襲王制が定着しなかったからでもある。そのため集権的な封建王政の基礎として必要な王領地の強化・拡大は不可能となり,王位をめぐる有力諸侯の争いがドイツの政情をしばしば混乱させた。1356年に皇帝カール4世が出した“金印勅書”以来,7人の選帝侯が代々のドイツ国=皇帝をそのつど選挙するという方式が打ち立てられた。15世紀の前半からは,東南ドイツの大領邦オーストリアを支配するハプスブルク家が,事実上帝位を独占する形となったが,これによって帝国の集権化への道が開けたわけではなく,諸侯はそれぞれの領邦ごとに,国家形成を進めていった。
【近世のドイツ】こうして,今ではイタリアを失った“ドイツ国民の神聖ローマ帝国”が,フランスのような国民国家に発展する見通しがなくなった16世紀初頭,ルターによる宗教改革運動がおこった。この運動は貴族から農民に至る各階層のあいだに広い支持を見出し,ルターはまた聖書のドイツ語訳を通じて標準的なドイツ文章語をつくりだしもしたが,イギリス国教会のようなドイツ国民教会はついに成立しなかった。政治的分裂は宗派の分裂によって,いっそう輪をかけられ,ルター派の新教諸侯とカトリックに留まった諸侯とのあいだに,1555年,アウグスブルクの宗教和議で,両宗派の同権と共存関係ができあがったにとどまる。1525年に未曽有の農民反乱がおこったときも,諸侯は宗派の別なくそれを武力で鎮圧し,各領邦ごとの主権をますます安定させた。またこの16世紀にはドイツ各地で都市の発達がめざましく,フッガーのような大財閥も現れた。しかし内陸的なドイツは〈大航海時代〉における西欧諸国民の海外発展からまったくとりのこされ,国民経済を育成する重商主義の政策も,ドイツ全体としては不可能なことであった。中世には北海・バルト海で盛んに活躍したハンザ同盟のドイツ商人たちも,このころには列国の重商主義によって特権を奪われていった。
17世紀前半の三十年戦争は,もともと新旧両教派の敵対から始まったものだが,この内戦には新教国スウェーデンのほか旧教のフランスまでがハプスブルク家への敵意から新教諸侯に味方して介入を行った。戦争で大きな経済的被害をうけ人口も激減したドイツは,1648年のウェストファリア条約で,各諸侯に事実上の国家主権を与える,一種の連邦体制になってしまった。この世紀の後半から18世紀にかけて,ホーエンツォレルン家の支配するプロイセンという大国が北部ドイツに形成され,南のオーストリアと対抗するようになり,その後のドイツ史の歩みを大きく規定した。とくに軍事的官僚国家プロイセンが,絶対主義の最盛期であるフリードリヒ2世(大王)のもとで,オーストリアを2度まで打ち破ったことの意義は大きい。
【統一への歩み】フランス革命後,ライン左岸の占領とナポレオンの圧力によって,大なり小なり社会的・政治的な近代化をよぎなくされた。プロイセンとオーストリアの二大国に対抗する第3の政治ブロックをつくり出すため,彼の指示で教会諸侯領やあまたの零細領邦・自由都市が廃止され,これら接収領域の分け前にあずかった諸侯国はナポレオンを支援する「ライン同盟」をつくった。「ライン同盟」が帝国を離脱するに至って,1806年の夏,皇帝フランツ2世は退位し,神聖ローマ帝国は名実ともに消滅した。同じ年の秋イエナの戦いでナポレオンに大敗を喫したプロイセンでは,シュタイン・ハルデンベルクら開明的な大臣の指導下に,農奴解放や営業の自由などの諸改革が行われ,フランスにならって軍制も近代化された。ナポレオンのモスクワ遠征の失敗をみて,プロイセンはロシア・オーストリアと同盟し,1813年10月ライプツィヒの戦いにナポレオンを破り,「ライン同盟」諸国はくびきから解放された。しかしこの解放戦争も,愛国者たちが期待したようなドイツの政治的・社会的な変革をなんらもたらさず,ウィーン会議の結果,35の独立君主国と四つの自由都市からなる「ドイツ連邦」がつくられた。ウィーン会議の主宰者メッテルニヒは,この連邦体制のもとで自由主義的な国民運動を抑圧する急先鋒となったが,それでも連邦規約にもとづいて,南ドイツ3国(バーデン・バイエルン・ヴュルテンベルク)をはじめとするかつての「ライン同盟」諸国では,次々と立憲君主制が導入された。
1830年フランス七月革命がドイツの自由主義運動に活気を与えるなかで,プロイセンは,政治的には保守的だったにもかかわらず,ウィーン会議で工業先進地帯のライン州を獲得していたこともあって,経済の面では自由化路線を進めた。プロイセンが,ライバルのオーストリアを除く国々に働きかけて,ドイツ産業の保護育成をめざす「関税同盟」を発足させた(1832)のもその現れであった。このころには,プロイセン以外の中小諸国でも,政府の主導のもとで産業革命が始まりつつあり,資本主義の発展は伝統的な身分制社会を内側から掘り崩していった。そういうなかで1848年フランスに二月革命がおこると,その波はたちまちドイツに押し寄せ,各国に「三月革命」がおこった。自由都市フランクフルトに,各国から選ばれた自由主義者が集まって,史上はじめての「国民会議」を開き,統一ドイツ国家の憲法制定の仕事と取り組んだ。しかし統一の方式をめぐって,プロイセン中心の「小ドイツ主義」とオーストリア本位の「大ドイツ主義」が対立し,革命運動の内部にも急進派と穏健派の分裂が生まれるなかで,1848年夏ごろから保守勢力は反攻に転じ,翌年には各地の革命運動がすべて鎮圧された。
この革命を通じて,多民族国家としてのハプスブルク帝国の内的な弱点が暴露されたことは,来たるべき統一に大きく影響することとなった。
【ドイツ帝国と第一次世界大戦】革命は失敗に終わったが,1850年にはプロイセンも立憲君主制を取り入れ,政治的な民主主義運動は厳しく抑圧しながらも,1850年代から始まった全般的な好況のなかで,産業革命を急速に推し進めた。1860年代の初め,軍備拡張をめぐるプロイセン王と議会の紛争を解決するために,ビスマルクが首相に任ぜられると,彼はシュレスヴィヒ-ホルシュタイン問題で巧みにオーストリアを挑発し,1866年の普墺戦争で電撃的な勝利を収めた。ハプスブルク家のオーストリア-ハンガリー帝国が独自に形成される一方,プロイセンを盟主に,南ドイツ3国を除く北ドイツ連邦ができあがり,ドイツ連邦は解体した。
ついでビスマルクはフランスに鋒先をむけ,1870年夏,両国間に戦争がおこると,ドイツ軍はこれにも大勝し,1871年1月18日,ヴェルサイユ宮で,プロイセン王ヴィルヘルム1世を皇帝とするドイツ帝国の建設が宣せられた。「小ドイツ主義」による統一が武力で行われたのである。
ドイツ帝国は,北ドイツ連邦に南ドイツ3国を吸収してできた,一種の連邦国家で,ヘゲモニーはプロイセンが握り,帝国宰相となったビスマルクが,約20年にわたり内政外交を指導した。新教徒の貴族である彼は,当初は自由主義政党と手を結んで,中央党に代表されるカトリック教徒を迫害したが,この「文化闘争」がうやむやに終わると,彼は工業化のなかで成長しつつある労働者の社会主義運動に攻撃目標を移した。社会主義者鎮圧法で労働者の政治活動を押さえ込む一方,彼は一連の社会保障制度をつくり労働者を体制に順応させようとした。外交に優れたビスマルクは,フランスの報復に備えるため,バルカン問題で対立しているオーストリアとロシアの利害を調整しつつ,複雑な同盟の網をつくりあげ,ドイツの経済発展に必要なヨーロッパの平和維持をはかった。1888年に即位した2代皇帝フリードリヒ3世がわずか3カ月で病没すると,3代皇帝ヴィルヘルム2世は,労働政策をめぐる対立からビスマルクを解任し,親政を行おうとした。しかし気まぐれで無思慮な新皇帝は,ビスマルクがドイツの安全保障のため植民地の獲得に消極的だったのに反し,積極的な帝国主義政策に乗り出した。モロッコへの介入や,大海軍の建設,またバグダード鉄道による東方進出の企業などは,ビスマルクの最も恐れていた英・仏・露三大国の対ドイツ連合(三国協商)を招く結果となり,やがてドイツは,オーストリアのみを有力な味方として,第一次世界大戦へと突入する。
【ワイマールからナチス=ドイツへ】ドイツは列強に包囲されながらも,東西の両戦でよく戦ったが,せっかくつくった海軍の活動がイギリスに封じられ,無制限な潜水艦作戦がアメリカの参戦を招くに及んで,ついに敗北し,苛酷なヴェルサイユ条約を結ばねばならなかった。
ドイツ国内では,戦局が絶望的となった1918年の秋,キール軍港の水兵反乱をきっかけに各地で革命がおこり,帝国は崩壊して,1919年に“ワイマール共和国”が発足した。この新国家は18の州からなる連邦体制であるが,プロイセンの覇権はもはや失われ,人民主権の自由主義的な憲法にもとづき,初代大統領には社会民主党のエーベルトが選ばれた。しかし,そもそもドイツ革命はソ連にならった労兵協議会の過激な運動を抑圧する形で達成されただけに,ワイマール政権は最初から反共色をおび,軍部・官僚・大資本家などの旧勢力を温存していた。巨額の賠償金を課せられてドイツの経済は混乱し,1923年には未曽有のインフレに見舞われたが,アメリカの資本援助などを通じて1925年には復興の見通しが開けた。しかし同じ年にヒンデンブルク元帥が2代目の大統領に選ばれたことは,旧勢力を力づけ,さらに1929年の世界恐慌で再び経済秩序がゆらぐなかで,民主政治は麻痺し,右翼の勢力が台頭してきた。なかでもヒトラーの率いるナチスは,ヴェルサイユ体制の破棄や反ユダヤ・反共産主義,ゲルマン民族による大ドイツの建設などを唱えて大衆の支持を集め,1932年の総選挙で第1党に進出した。そして翌1933年1月,ヒンデンブルクがヒトラーを首相に任ずると,彼はたちまち一党独裁体制を打ち立て,1934年からは“総統”と号して“第三帝国”の元首になった。
【第二次世界大戦と二つのドイツ】ナチス政権は大々的な軍拡に乗り出す一方,国内政治では文化統制にまで及ぶ全体主義的な画一化を断行した。1938年,ヒトラーはオーストリアを併合し,翌年にはチェコスロヴァキアの無法な占領に続いて,9月ポーランドに侵入したので,これまでは反ソ的見地からナチスの横暴を黙認していた英仏両国も,ドイツに宣戦し,第二次の大戦が始まった。ドイツは早くも1940年6月フランスを降伏させたが,翌年ヒトラーが独ソ不可侵条約(1939)を破ってソ連に軍を進めると,イギリスのほかアメリカまでがソ連と結んだ。ヨーロッパにおけるドイツの同盟国は,ムッソリーニ独裁下のイタリアのみだったが,1943年秋にイタリアが降伏すると,英米ソは相呼応して東西からドイツを攻撃し,ソ連軍のベルリン占領でヒトラーは自殺,1945年7月にドイツは無条件降伏した。
敗戦後のドイツは米・英・仏・ソの4カ国に分割占領されていたが,ドイツを早く復興させ西欧の自由主義陣営に引き入れようとする米英仏とソ連との敵対は急速に深まり,1949年4月に北大西洋条約機構ができたのに続いて,同年9月,西側3国の占領地域にドイツ連邦共和国が成立,これに対抗してソ連側は,オーデル・ナイセ川を東の国境とする社会主義のドイツ民主共和国を発足させた。ボンを首府とする西ドイツでは,キリスト教民主同盟と社会民主党を中心に自由主義の民主政治が行われ,経済も1950年代以降,急速に復興した。東ドイツは,マルクス主義の社会主義統一党の政権下で,民主集中制の原理による行政がしかれ,経済体制は社会主義化されたが,生産水準は今なお西ドイツよりはるかに低い。東西に引き裂かれたドイツの悲劇は,1961年8月,東ドイツ政府のあるベルリンのソ連占領地区が,西側3国占領地区とのあいだに築いた「ベルリンの壁」に象徴されている。
【ドイツの文化と思想】中世のドイツでは,封建制の盛んだった12〜13世紀に,騎士道とキリスト教を調和させ,多くは愛を主題とする「ミンネザング」という詩が宮廷で流行し,民間でも古ゲルマン時代の伝説を集大成した『ニーベルンゲンの歌』が生まれた。また都市の興隆に伴い,壮大なゴシックの教会堂建築や彫刻が盛んとなり,市民のあいだには神秘主義の信仰がひろがった。ルネサンス期にも,都市を中心にデューラーやホルバインのような芸術家が輩出したが,それと並んで宗教改革の影響のもとで,素朴ながら深みのある讃美歌がドイツ独自の教会音楽の源を開いた。バロック期のドイツは三十年戦争による荒廃のため,シュッツの音楽やライプニッツの哲学などを例外として,文化は一般に低調で,フランスの模倣がはやった。 しかし18世紀にはいると,政治的な分裂にもかかわらず,真に国民的な文芸の花が開きはじめる。大バッハやヘンデルは多くの優れたオルガン曲や室内楽をのこし,世紀の後半にはハイドンからモーツァルト・ベートーヴェンに至る古典主義の音楽がヨーロッパをリードした。文学でも,啓蒙主義思想家のレッシングが優れた市民演劇を創りだしたのをうけて,ワイマールを中心に,シラーやゲーテのごとき文豪が不朽の名作をもってドイツ文学の黄金時代を現出した。18世紀末から19世紀の初期にかけては,フランスの合理論やイギリスの経験論を批判的に摂取しつつ,カントが“ドイツ観念論”と呼ばれる独自の哲学体系を打ち立て,その伝統はフィヒテ・ヘーゲルへと受け継がれた。それと並行してノヴァーリスの小説やシューベルトの歌曲に代表される“ロマン主義”の文芸が,ドイツ国民独特の深い内面性を表現し,この潮流はやがて三月革命の前夜に至って,リベラルな民族主義とも結びつき,ハイネの詩やグリム兄弟の民話集を生みだした。
三月革命の挫折からビスマルクによる帝国建設の時代は,工業化の進展に伴って,物理・化学・医学など,科学の面でドイツ人は世界的な偉業をなしとげた。文学は1880年代の末にハウプトマンらが,社会問題を取り上げた自然主義のドラマをもって登物するまで,一般に低調であったが,音楽界ではシューマンやワグナーがロマン主義の最後を飾った。ロマン主義が高揚させたドイツ民族性の自覚は,ランケをはじめとするすぐれた歴史家をも生み出し,マルクスやエンゲルスが,ドイツ観念論の批判を通じて,社会主義の体系をつくりあげる一方,新カント派の価値哲学やニーチェによる反宗教的な〈生の哲学〉が市民社会に大きな影響を与えた。帝制時代の末期にはリルケらの象徴派の詩人や文豪トマス=マンが名を馳せ,社会科学ではウェーバーが偉大な業績を残した。ワイマール共和国時代の文芸は,主観的な意志の表出を重んずる表現主義によって代表される。ナチス=ドイツの到来は,優れたユダヤ系知識人の亡命も手伝って,文化・思想の自由な発展を圧殺し,その破壊的な影響は戦後にもなお深い傷あとをとどめている。
〔参考文献〕林健太郎編『ドイツ史』1977,山川出版社
J. ドローズ,橡川一朗訳『ドイツ史』クセジュ文庫,1952,白水社
西川正雄編『ドイツ史研究入門』1984,東京大学出版会
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