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●典礼問題 てんれいもんだい

アジア 中華人民共和国 AD 

 カトリシズムを中国に布教するに際して生じた論争で,最初はイエズス会内部の問題であったが,次にこの会と他の修道会・布教団体との争いに発展し,最後は清の皇帝とローマ教皇の対立を招き,中国におけるキリスト教布教の全面的弾圧をみるに至った。

【発端】イエズス会は,中国においては指導層である読書人層の改宗に全力を注いだ。中国では,冬至の日皇帝は百官を率いて天壇で上帝(天)を祀る慣習があり,地方の諸都市では地方官がその地の役人や学生を率いて同様の祀りを行う。キリスト教に帰依した官吏や読書人にとってもこの行事に列席することは当然の義務である。マテオ=リッチはこのため天とか上帝とかいうことばも宇宙の支配者・造物主を示すものであるからとして,天主という文字のほかにデウスを表現するために使用することを認めた。次に中国の各地には孔子を祀った廟があり,毎月の1日と15日には土地の官吏が学生とともにここに集合し,孔子の像や位牌の前で香をたいたり,礼拝したりするのが慣習であった。リッチはこの儀式は孔子が優れた学説を立て,後人を教え導いてくれたことに感謝の意を捧げるものだとして,中国人信者がこの儀式に参加することを承認した。また,中国には某氏祠堂とか某氏宗祠といった祖先を祀った建物があり,祖先の命日にはその系枝の族員全部がこの建物に集合し,位牌の前に供物を捧げ,礼拝を行い,共同食事をした。リッチはこの儀式を祖先に対する純粋な追憶の情を示すものとして中国人信者が参加することを認めた。リッチがこれらの儀式に信者が参加することを容認したのは,そうしなければ読書人層の入信を勝ち取ることができないと信じたからに違いないし,外地で働く宣教師はその土地の風俗習慣に順応すべしというイエズス会の基本方針に従ったものであった。たしかに中国の権威ある文献による限り,これらの行事や儀式には迷信的な要素は乏しく,国民的な行事であり,それに出席することは徳義的なこと,すなわち civil なものといえるが,地方などにあってはこれらの行事に際して業々しい,また生々しい犠牲を捧げることも行われており,その段階になると,もはや国民として当然出席しなければならない civil な行事という域を逸脱したものになる。したがって,同じイエズス会士のなかでも主として地方で長く活動したもののうちにはリッチの見解に納得しないものもいた。彼のあとを継いで中国の布教長になつたニコロ=ロンゴバルディ(龍華氏,1559〜1654)はリッチ方式にまったく反対であったので,1628年(崇禎1),1635年の両回にわたって,在中国イエズス会士の会議を江蘇省嘉定で開き,この方式の廃棄を議したけれども,反対意見が強いため問題を解決することができなかった。

【イエズス会対他団体】1630年代,ドミニコ会・フランシスコ会・アウグスティノ会などの諸修道会の宣教師が来中し,1680年代にはフランスの布教団体であるパリ外国宣教会の神父たちが入国し,イエズス会による中国布教独占の時代は終わった。彼らはイエズス会士とは違って読書人をまず入教させようとは考えなかったので,中国の諸慣習・諸儀式には顧慮を払わずに庶民のあいだに信仰を広めた。そのため1637年には早くも当局から迫害を受けた。これをイエズス会士の陰謀によるものと判断したドミニコ会士モラレスは1643年ローマに至り,宗教裁判所にイエズス会が中国で行っている布教方法を異端であるとして訴えた。その結果,教皇インノケンティウス10世宗教裁判所の起草した勅書を承認し,中国のキリスト教徒が死んだ祖先や孔子に対して行う儀式に参加することを禁じた。当時教会では,教皇決定の無謬性ということは教条とはなっていなかったので,イエズス会は自会内部における意見の対立を克服し,団結して外難と戦うことを決めた。その結果,マルティニ(衛匡国)がローマに派遣された。彼は1654年にローマに入り,中国の祖先崇拝や孔子崇拝の儀式が純粋に civil なものであることを立証する多数の証拠を提出したので,宗教裁判所もイエズス会の解釈に従わざるを得なくなり,結局,教皇アレキサンドル7世は1656年の勅書によってイエズス会の立場を承認した。1665年欽天監(天文台)をめぐる大迫害が発生し,アダム=シャールらに死刑が宣告された際,全国で布教に従事していた宣教師は逮捕され,広州のイエズス会住院に監禁された。ここでドミニコ会・フランシスコ会などの修道会に所属する宣教師たちは,中国典礼に関する自分たちの解釈をこれ以上押しつけないこと,アレクサンドル7世が1656年に承認したイエズス会の解釈に従うことを誓った。アレキサンドル7世は1667年に死亡し,そのあとをクレメンス9世が継いだ。この教皇はドミニコ会に好意をもっていた人なので,1669年,先にアレクサンドル7世が出した中国典礼に対する好意的な勅書は無効であるという勅書を公布して,イエズス会に衝撃を与えた。一方,先の広州誓約にあたって,はっきりと署名した一ドミニコ会士が広州を脱出して1673年ローマに至った。彼は,反典礼の活動を展開し,1674年布教聖省から中国の諸儀式への信者の参加を厳禁するという布告を勝ち取った。

【教皇対中国皇帝】パリ外国宣教会所属の福建代牧メグロ(顔当)は,典礼問題に関する調査を教皇庁から命ぜられたが,1693年(康煕32),彼はイエズス会の布教方針はまったく誤りであるという結論に達し,教書という形で福建省の信者に典礼に参加することを禁じた。これは中国の信者に大きな波紋を投げかけ,信者たちは誓状とか誓証という形でメグロ方式が中国の実情に合わないことを教皇に訴えた。在中国イエズス会士も1700年,中国の諸典礼に関するリッチの見解をしたため,皇帝の承認を求めた。皇帝がそれを認めたので,イエズス会士はこれをヨーロッパに送り,典礼問題を自派に有利に導こうとつとめた。1700年クレメンス11世が即位したが,この人は以前からイエズス会に好意をもたなかった人なので,中国の信者や康煕帝の意見を無視して,1704年上帝という用語の使用,孔子崇拝や祖先崇拝に関する儀式への中国人信者の参加を禁止する教令を出した。彼はこの教令を出す前に,その内容をトゥルノンに教え,この教令の内容を中国に伝達すべき特派使節として中国に送った。彼の一行は1705年北京に到着し,康煕帝に拝謁した。使節は,初め真使命が典礼を否認する教令の公布にあるということをできるだけ隠していたが,イエズス会士からその真相を知らされると不快の念を禁じることができず,使節に帰国を促した。3度目の謁見の際メグロが使節に随行した。中国側は使節の反典礼的な行動をメグロの陰謀によるものと考え,断乎たる処置をとることにした。皇帝はトゥルノンを帰国させるとともに,メグロを追放し,今後は中国典礼を信者に容認するものに限って滞在許可証(票)を授与することを決定した。マカオに戻る途中トゥルノンは1707年に南京で1704年のクレメンス11世教令の内容を盛った教書を発表した。皇帝は彼をマカオに監禁させた。トゥルノンは1710年抑留されたままマカオで死亡した。康煕帝は,ローマ教皇の主張する教皇はすべての信者の精神上の支配者であるという方針を理解せず,信者も中国人であれば肉体的ばかりでなく,精神的にも中華皇帝の指導に従わなくてはならないという態度を堅持したので,両者の対立は避けられないものとなり,皇帝が給票(滞在証明書支給)政策を推し進めたのに対し,クレメンス11世は1715年「エクス=イルラ=ディエ」という教皇令を発し,従来の方針を強い方法で確認した。両者は互いに宣教師を使節として派遣し,自己の立場を相手にわからせようとしたが,ついに相互理解ができないで終わり,雍正帝は1724年(雍正2)全面的にキリスト教を禁止し,1742年教皇ベネディクトゥス13世は,典礼問題に対する最終的教皇令を出して今後論争を行うことを禁止した。

〔参考文献〕矢澤利彦『中国とキリスト教』1972,近藤書店