●天理教 てんりきょう
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幕末維新の時代を背景に生まれた民衆的な救済宗教である。開祖の中山みきは,大和国(奈良・天理市)の庄屋の主婦であったが,1838年(天保9),41歳のとき長男の病気平癒を祈っていて突然神がかり,自ら「天の将軍」を名乗り,〈このたび,世界一れつ(全世界の人々)をたすけるために天降った〉(『稿本天理教教祖伝』)と口走った。天理教の親神「天理王命(てんりおうのみこと)」が,教祖(おやさま)中山みきの口を通して語った最初の言葉であった。天理教では,この年をもって立教の年としている。こうして天啓を得て生き神となったみきは,まず「貧に落ち切れ」(同教祖伝)との親神の命に従い屋敷,財産を放棄,安産と病気治しの神さまとしての救済活動を始める。みきは民衆に対してどこまでも献身的であった。苦しい生計の中から食をさき,寒さにふるえている人を見ると着ている絆てんを脱いで与えた。ひどい化膿で苦しんでいる人には,口をつけてウミを吸ってやったといわれる。他方,みきは独特な神話をつくり教えを説いてゆく。〈この世元初(もとはじ)まりの時,親神は,人間の陽気ぐらしを見て共に楽しみたいとの思召から,人間を創り給うた〉(同教祖伝)。
親神は,一種の創造神である。天地を創り,人間を創った。その神は,〈世界中一列や皆兄弟や,他人とゆうは更に無いぞや〉と人間の平等観を説き,〈人間は皆々神のか(貸)しものや〉と述べている(『おふでさき』)。人間の幸,不幸は,借物の人間が欲しい,惜しい,憎いなど八つのほこり(八埃=やちあい)の罪悪にとらわれているからで,人はこうした「悪しきを祓(はろ)うて」,神への奉仕的な労働「ひのきしん(日の寄進)」,そして「にほいがけ(布教)」を行えば,神が約束する理想世界「陽気ぐらし」が実現されると説いた。
みきが,やがて一神教的な天理王命を中心に教義を体系化,人々に世直し的な理想世界の実現を呼びかけたのは維新の前夜,すなわち慶応年間のことである。ちょうど薩長の東征軍が錦の御旗をかざして東海道を進み,各地で百姓一揆がおこり,民衆は「ええじやないか」と踊り狂っていた。みきの教えはこうした時期の民衆の不安と世直しの期待を見事に反映,そのゆえに人々をとらえることができたといわれる。
〈確(しか)と聞け高山(たかやま=権力者)やとて谷底(たにぞこ=民衆)を儘(まま)に為(し)られた事であれども,これからは月日(親神)代りに出るほどに儘に為(し)よなら為(す)れば為(し)てみよ〉(『おふでさき』)
みきには,「谷底」の立場からの激しい「高山」に対する批判と憤りがあった。1874年(明治7),77歳の高齢で呪術祈祷,医療妨害を理由に取調べを受けたのをはじめ,みきは前後18回も拘留投獄されたが屈しなかった。1887年(明治20)90歳で没するが,最期の日,死の床を囲む側近たちに〈律(法律)が怖いか,神が怖いか〉(『おさしづ』)と語り息を引き取っている。
もっとも,みきには〈唐人が日本の地入込んで儘(まま)にするのが神の立腹〉(『おふでさき』)と,維新期らしい民族意識も強くもっていた。みきの没後,後継者たちはその権力批判を後退させて,公認運動の道を選び,1908年(明治41),政府の公認を得た。
〈教団本部〉 奈良県天理市三島町
〈祭神〉 親神「天理王命」
〈教典〉中山みきが自ら記した『みかぐらうた』『おふでさき』と,みきの最期の言葉などを記録した『おさしづ』
〈教勢〉教会・布教所36,824,教師166,736人,信者2,610,137人(『実数年鑑』57年版による)
〔参考文献〕天理教教会本部編『稿本天理教祖伝』1956,天理教道友社
村上重良,安丸良夫校注 日本思想大系67『民衆宗教の思想』1971,岩波書店
小栗純子『日本の近代社会と天理教』1976,評論社